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2010年8月22日日曜日

室生寺(2010.8.22訪問)

奥の院
■奥の院
重文
鎌倉時代後期
http://www.murouji.or.jp/garan/okunoin.html

五重塔の脇を通って高い石段を登り切ると奥の院。
弘法大師を祀る御影堂は大師堂とも言い、板葺き二段屋根の宝形造りで、屋上の宝珠と露盤は優品である。
各地にある大師堂の中でも最古級の堂。

だいしどう 【大師堂】真言宗の寺院で、弘法大師の像を安置する堂。

宝形造(ほうぎょうづくり)
日本建築の屋根の形式の一つ。方形造とも書き、方形平面の建物の屋根に多い。寄棟(よせむね)造のように雨が四方に流れるが、屋根の頂部に棟がなく、隅棟(すみむね)が屋頂で合しているもの。頂部には露盤(ろばん)、伏鉢(ふくばち)、宝珠(ほうじゅ)を置くが、伏鉢と宝珠の間に受花(うけはな)のつくものもある。宝形造の名は、露盤、伏鉢、宝珠の総称を宝形とよぶのに由来する。宝珠は正しくは如意(にょい)宝珠といい、あらゆる苦難を取り除く宝の珠(たま)の意。ほかに、八面または六面からなる屋根をも宝形造とよぶことがある。

如意宝珠(にょいほうじゅ)
思いどおりに宝を出すといわれる珠のこと。サンスクリット語のチンターマニcintmaiの訳。如意宝、如意珠ともいう。いかなる願望も成就し、意のままに、宝や衣服、飲食を出し、病気や苦悩をいやしてくれるまさに空想上の宝珠であり、また悪を除去し、濁った水を清らかにし、災禍を防ぐ功徳(くどく)があると信じられている。如意輪観音(にょいりんかんのん)、馬頭(ばとう)観音、地蔵菩薩(じぞうぼさつ)などの持物(じもつ)とされる。とくに真言(しんごん)宗などの密教で重んじられる。

ろ‐ばん【露盤】仏塔の相輪のいちばん下にある四角い盤。

■「天然記念物 室生山暖地性シダ群落」
 イヨクジャク(Diplazium Ohudairai Mak.)、イワヤシダ(Diplaziopsis Javarca C.
chr.)、オオバハチジョウシダ(Pteris longipinnula Wam.)など暖地性シダが群生している。
 この群生は、わが国のこれら暖地性シダの分布の北限にあたるため1928.11.30(昭和3.11.30)天然記念物に指定された。
天然紀念物調査報告(植物之部)第九輯 一五頁 参照

■五重塔
国宝
奈良時代後期

本堂横の高い石段の上に優しく立つこの塔は、屋外に立つ五重塔としては我が国で最も小さく、また法隆寺五重塔に次ぐ古塔である。
檜皮葺の屋根や丹塗りの組物が、奥深い樹林に包まれて格別の風情がある。

室生寺は,奈良時代末期頃,奈良県中部にある室生山中の竜穴神霊場に創建された。
五重塔は8世紀末期頃の建築で,一般的な古代の五重塔に比べ,高さなどほぼ3分の1程度の規模である。
しかし,柱・組物・垂木など部材は太くされており,緩やかな勾配の檜皮葺屋根と相俟って,優美で安定感のある外観になっている。

高さ16メートルという小さな塔であり,各重がやや高いきらいはあるが,ゆるやかなひわだぶきの屋根はきわめて軽妙な感じをもっている。
また相輪は普通のものと違った珍らしい形をしている。
室生寺は奈良時代末期からすでに存在し,この塔も奈良時代の特色をます点が少なくないので,おそらく創立当時の遺構であろう。

檜皮採取の技術は,80から100年生以上の檜の立木から,樹皮である檜皮を剥ぎ取る技術である。剥いだ檜皮は一定の長さに切り揃えて結束し,檜皮葺業者に引渡す。このような檜皮採取の技術者を原皮師(もとかわし)と呼んでいる。原皮師は檜の立木の下部からヘラを入れ,順次上方にめくり上げ,麻縄を巧みに使って足掛かりとし,高い木では20メートル以上まで登り,皮を剥ぐ。自由に木を登り降りし,木の上で皮を剥ぐには高度な技術と熟練が必要である。
 檜皮葺の仕上がりや耐久性は,材料の檜皮の良否に負うところが大きく,檜皮採取は檜皮葺建造物の保存に欠くことのできない重要な技術である。近年では後継者が激減し,現業者も高齢化が著しいなどの理由により,檜皮の採取量の減少を招くなど大きな問題となっており,早急に技術の保存と後継者の育成を図る必要がある。

に‐ぬり【丹塗(り)】
丹(に)または朱で塗ること。

■潅頂堂(かんじょう)
国宝
鎌倉時代

金堂からさらに石段を登ると本堂がある。
ここは真言密教の最も大切な法儀である灌頂を行う堂で、真言寺院の中心であるところから本堂、或いは灌頂堂と言い延慶元年(1308)の建立。
五間四方入母屋造りの大きな建築で、和様と大仏様の折衷様式を示す。

室生寺潅頂堂(現本堂)にみえる意匠・構造は、天皇家の帰依を受けて北京律僧が造営したと考えれば、理解しやすい部分が多い。現存遺構がない天皇家および北京律僧による中世の寺院建築を考えるうえでも室生寺灌頂堂は重要な遺構である。北京律僧は東寺・東大寺のほか鎌倉などでも活躍しており、これらの寺院や地域における建築の様相を、北京律僧の活動からとらえ直してみる必要がある。

密教の両界曼荼羅は、いずれも大幅(縦・横1メートルから3メートル余)で、金堂あるいは灌頂堂(かんじょう)という比較的大きい建物の内部(内陣)に安置される。これにも2種あり、掛幅(かけふく)用と壇上に敷く敷(しき)曼荼羅に分けられる。今日では真言宗の寺院ならどんな小さなところでも、曼荼羅の1、2本はかならず常備しているのが通例である。正面に向かって右、東側に掛けるのを胎蔵界(たいぞうかい)(正しくは胎蔵)曼荼羅という。これは『大日経』を所依として図解したもので、女性的原理に基づく理の世界、あるいは物質的な世界観を表す。同じく向かって左、西側に掛けるのを金剛界(こんごうかい)曼荼羅といい、『金剛頂経』を所依として図解し、男性的原理に基づく智(ち)の世界、あるいは精神的な世界観を表す。

「密教的空間の研究 : 潅頂と潅頂堂その 3」http://ci.nii.ac.jp/naid/110003882057

いりもや‐づくり【入▽母屋造(り)】入母屋屋根をもつ建物。唐招提寺(とうしょうだいじ)講堂など。

入母屋(いりもや)
勾配(こうばい)屋根の形式の一つで、切妻(きりづま)の四周に庇(ひさし)を葺(ふ)き下ろしたような形となり、妻側の庇から相当内に入った所に破風(はふ)が立ち上がる形式になるのでこの名がある。古代の竪穴(たてあな)住居で円形または隅(すみ)丸の平面をもつものは、(垂木)(たるき)を穴の周辺に沿って立ち上げ、中央で束ねる円錐(えんすい)形の屋根となるのが自然であるが、これに煙出しをつくり、しかもそこから雨が降り込まないようにするため、頂点部分に短い棟(むね)をつけると、おのずから入母屋の形ができる。登呂(とろ)遺跡などの竪穴住居はこの形で復原され、家形埴輪(はにわ)でもこの屋根をもつものが多い。奈良時代までは最重要の建物(宮殿における大極殿(だいごくでん)、寺院における金堂(こんどう)など)には寄棟(よせむね)を用い、入母屋は一級下の建物(寺院における講堂、中門など)に用いられていたが、その後は重要施設のすべてを入母屋で統一するのが通例となった。現在でも高級木造建築で入母屋の用いられることが多い。
通常の入母屋は、棟から平側の軒までを連続した面(普通は反(そ)り、まれに起(むく)りをつけた曲面)につくるが、切妻部分の勾配を急に、庇部分の勾配を緩くして屋根を折板(せっぱん)状につくるものを錣葺(しころぶ)きといい、玉虫厨子(たまむしずし)宮殿模型の屋根や復原された四天王寺伽藍(がらん)ではこの形が用いられている。

和様(わよう)
日本美術用語。唐様(からよう)に対することばで、日本風、日本様式をさす語として用いられ、美術史ではとくに書、建築などの様式に用いる。
建築では、鎌倉時代に新たに導入された大仏様、禅宗様に対する呼称。
奈良時代に伝来した中国唐(とう)代の建築様式が母胎となり、平安時代を通じて日本的に発展したものを和様の建築様式という。

大仏様建築(だいぶつようけんちく)
鎌倉初期に行われた建築様式。治承(じしょう)の兵火(1180)で焼失した東大寺の復興にあたり、大勧進(だいかんじん)に任じられた重源(ちょうげん)が、当時の中国建築の様式を取り入れてつくった建築様式で、東大寺大仏殿の造営にちなんでこの名でよぶ。かつては天竺(てんじく)様ともよんだが、インド様式と誤解されやすいので、この名称が提唱された。

■如意輪観音座像
重文
平安時代中期
本堂正面の厨子に安置されるこの像は、穏やかな作風の桧の一木造り。
観心寺・神咒寺の如意輪とともに日本三如意輪の一つと称されている。

如意輪観音(にょいりんかんのん)
観音菩薩(ぼさつ)の一つ。サンスクリット名はチンターマニチャクラCintmai-cakraで、手に意のままに宝を出すという如意宝珠を持ち、いっさいの人々の願いを満たすので、如意輪観音の名がある。世間においては財宝を富ませ、福徳智慧(ちえ)の資糧を増加させて、苦悩する衆生を救うという。造像上では六臂(び)につくられ、頭上に宝珠を安置する。まれに中宮寺のような二臂の像もある。普通は右手を傾けてほおを支え、思惟憐憫(しいれんびん)の情を表し、左手に施満願(せまんがん)の印を結ぶ。

■五輪塔(ごりんとう)  北畠親房(きたばたけちかふさ)の墓

五大(ごだい)にかたどった5種の部分からなる塔をいう。五輪卒都婆(そとば)(卒塔婆(そとうば))ともいう。五大とは、物質の構成要素である地、水、火、風、空のことであり、輪とはすべての徳を具備するという意味をもつ。したがって五輪とは、地輪、水輪、火輪、風輪、空輪の総称である。それぞれ方、円、三角、半月、宝珠(ほうしゅ)形につくられ、日本では平安時代のなかばごろから死者への供養塔(くようとう)あるいは墓標として用いられた。石造りが一般的であり、木、金属、泥などでつくられもした。ちなみに、人間の五体(ごたい)は五輪からなり(五輪五体)、大日如来(だいにちにょらい)と等しいとみなして、密教の修行者たちは五輪成身観(じょうしんかん)という観法(かんぼう)(禅定(ぜんじょう)の一種)を修した。

北畠親房(きたばたけちかふさ)
(1293—1354)
鎌倉末・南北朝時代の公卿(くぎょう)、思想家。父は師重(もろしげ)、母は左少将隆重(たかしげ)の女(むすめ)。後醍醐(ごだいご)天皇の信任厚く、南朝の中枢として活躍した。
親房の生涯はおおよそ3期に分けられる。第1期は鎌倉後期。北畠氏は、両統迭立(てつりつ)のなかで大覚寺統(だいかくじとう)に仕えてきたが、親房は後醍醐天皇に抜擢(ばってき)され、官職も32歳で父祖の最高職を抜いて大納言(だいなごん)に昇進、天皇の政治に深く参画し、吉田定房(さだふさ)・万里小路宣房(までのこうじのぶふさ)(藤原宣房)とともに「後の三房(さんぼう)」と称された。また後醍醐天皇皇子世良(ときよし)親王の養育にあたったが、1330年(元徳2)親王は若死にし、親房も悲しんで出家し政界を引退した。法名宗玄(そうげん)(のち覚空(かくくう))。出家の翌31年(元弘1)には元弘(げんこう)の変が始まり、ついで建武(けんむ)新政となるが、親房はこの政治過程では政界の表面では活躍しない。新政成立後は、長子顕家(あきいえ)の陸奥守(むつのかみ)就任により、ともに陸奥国に下り、顕家を後見して奥羽経営に尽力した。第2期は、新政の挫折(ざせつ)とともに始まる。足利尊氏(あしかがたかうじ)の反乱軍を追って西上した顕家とともに1336年(延元1・建武3)上洛(じょうらく)し、そのまま京都にとどまってふたたび国政に携わることとなった。尊氏再挙ののち、親房の画策によって後醍醐天皇を吉野山に迎えて南朝を開き、京都の北朝・幕府と対抗した。しかし顕家の戦死などで南朝は軍事的にしだいに劣勢となり、1338年(延元3・暦応1)東国を回復すべく義良(のりよし)親王、次子顕信(あきのぶ)らと伊勢(いせ)国大湊(おおみなと)を出帆したが、途中で暴風雨にあい、親房は常陸(ひたち)国小田(おだ)城(茨城県つくば市小田)に入った。翌年後醍醐天皇が死去し義良親王(後村上(ごむらかみ)天皇)が践祚(せんそ)したが、親房は小田城を動くことができず、1341年(興国2・暦応4)高師冬(こうのもろふゆ)によって攻め落とされ、ついで関城(茨城県筑西(ちくせい)市)に移ったが、1343年落城。常陸での6年間の苦闘はかくて失敗したが、小田城で『神皇正統記(じんのうしょうとうき)』『職原抄』を執筆した。第3期はこれ以後の晩年である。常陸から吉野に帰った親房は、文字どおり南朝の中心となった。軍事的には楠木正行(くすのきまさつら)の戦死により吉野を失い賀名生(あのう)に移るなどさらに劣勢となったが、幕府内部も分裂して観応(かんのう)の擾乱(じょうらん)となり、1351年(正平6・観応2)北朝を廃して正平(しょうへい)一統を実現し、親房は功によって准后(じゅごう)の宣を受けた。しかし親房の率いる南朝は、この政治情勢を永続させることができず、一統はたちまち破れ、親房は失意のうちに賀名生で没した。ただし没年、場所については異説がある。著書はほかに『元元集』『熱田本紀』など多数がある。親房の南朝に捧(ささ)げた生涯と、『神皇正統記』の独自の神国思想、正統観は、後世の思想界にも大きな影響を与えた。

■鎧坂(よろいざか)

鎧の草摺(くさずり:鎧(よろい)の胴の付属具。大腿部を守るために、革または鉄を連結して、ふつう五段下りにおどし下げる。下散(げさん)。垂れ。)を思わす幅広の石段が積み上げられている。

室生寺の堂塔は千年以上の時を重ねた建築物です。それは戦に巻き込まれることなく、平和な地であり続けたことを表しています。室生寺は、さまざまな宗派の山林修行の道場として、また人々の心のふるさとであり続けてきたのです。
しかし、金堂へと導く石段はそういう歩みとはかけ離れた「鎧坂」という勇ましい呼称です。鎧兜に身を包んだ武士たちが境内を走り回っていたかのようですが、もちろんそんなことはありません。
「鎧坂」とは、石段の下から見上げれば、鎧の"さね:【札】鎧を構成する細長い小板。鉄または革製で、1領に800〜2000枚をうろこ状に連結してつくる。"を編み上げたように見えるからです。春には石楠花、秋には紅葉に包まれ、冬には薄く雪を被る鎧坂の風景は、人智と自然の美しい融合だといえます。

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