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2010年4月16日金曜日

分類「その他」の作品見つめ直す(神戸新聞2010/04/15 11:35)

膨大な作品を所蔵する美術館は、その整理のために、学芸員がそれぞれのジャンルを規定する。例えば油彩画や彫刻、陶芸、写真。そして「その他」。複数のジャンルを横断したり、既存の項目に収まりきらなかったりするものたちをカバーする。そこには、重層的な性格を持つ作品が集まっているのでは‐。そうした視点で作品を見つめ直す展覧会「マイ・フェイバリット‐とある美術の検索目録/所蔵作品から」が、京都国立近代美術館(京都市左京区)で開かれている。(神谷千晶)

 「その他」に分類された作品を中心に約200点を展示。市販の便器にサインを記して"芸術"とし、20世紀美術の転換点と位置づけられるマルセル・デュシャンの「泉」(1917年制作/64年再制作)と、横尾忠則の油彩画「トイレ」(2003年)を近くに配置するなど、意外な組み合わせによって見る側の解釈を広げる手法を採っている。

 「その他」には、神戸市出身のやなぎみわによる「次の階を探して I」(1996年)や同市出身の澤田知子の「ID400」(98年)も含まれる。

 共に写真であるが、前者は、作品世界の構築という撮影以前の段階に重点が置かれ、後者は自分自身が被写体であるなど、いずれも従来の枠組みを超えた表現であるため、「その他」に分類された。

 この2作と、1050色のネイルカラーを塗ったフィルムを縦横に並べた笠原恵実子の「MANUS‐CURE」(98年)を続けて鑑賞すると、社会が女性に付したイメージや、人が「個性」と信じるものの頼りなさに思いが至る。

 パリを拠点に難民救済に取り組むルーシー・オルタの「レフュージ・ウエア(避難所としての被服)」(93年)は全身を覆い、テントにもなる防護服。ポーランド出身のクシシュトフ・ヴォディチコ「もし不審なものを見かけたら…」(2005年)は、移民が米中枢同時テロ事件後に受けた差別的な扱いについてつぶやく姿を、曇りガラス越しの影で表した映像作品。

 現代社会を背景とした作品が続けて登場することで、「姿を見せない」ことの多義性を考えさせられる。

 収集した作品を系統立て、その位置づけを定めることは、美術館の大切な役割だ。だが本展を企画した河本信治学芸課長は「作品を一つのカテゴリー(分類)の中に落とし込む時、おびえやためらいを覚える」と話す。既存の項目にあてはめることで、そこからはみ出す微妙なニュアンスが見えにくくなると考えるためだ。

 「その他」は、作品に内包された豊かな意味や物語をそぎ落とすことなく、現在そして未来の鑑賞者に開く姿勢だと感じた。

 5月5日まで。月曜休館(5月3日は開館)。同館TEL075・761・4111

渋沢栄一記念財団の「錦絵絵引」データベース(http://ebiki.jp/)

* 絵引・・・渋沢さんの孫の一人が考えられた構想。これを実業史の錦絵に適用したプロジェクト
* 例えば家を作るための話し合いをしている錦絵の人物にカーソルを合わせると、それそれの立場の説明が出たり、置かれている道具の説明が出たり
o 注釈は専門家が間に入って作成。20枚くらいの画像に1,000以上の注釈
o 「総髪」など、言葉は聞いても実物を見たことがないものを見られる
o 言葉から画像を検索することも可能
* 知的好奇心を刺激しながらドキュメントを示していく仕組み。専門家が考えて歴史的に加えた解釈に、何も知らない人も触れる機会を与える

言葉のファッション・モード

大切なのは、言葉の意味ではない。その使われ方であり、伝わり方であり、誤解のされ方であり、ゴマかされ方だ。別の言い方で言うなら、語義について語るよりも、どういう人たちがその言葉を使っているのかについて考える方が意義深いということだ。ファッションの本質が、衣服のシェイプや色よりも、それを身につける人々の精神のうちにあるのと同じ理屈で、言葉もまた、意味よりも、着こなしに重点が移りつつある、ということなのもしれない。

小田嶋隆さんの「一覧性」エッセイ抜粋

「一覧性」は、単に《情報を一目で見渡せる性質》《ページを一覧する上での見やすさ》という意味を表現するだけの言葉であってはならない。「一覧性」は、《情報がページ内で完結している》という性質を、併せて備えていてしかるべきだ。

 具体的には、「他のページを参照させたり、補完情報をリンク先に託していたり、用語解説をウィキペディアに委ねていたり、細部に関する解説をグーグル検索に頼っていたりする原稿は、ウェブ上では通用しても、紙のメディアでは許してもらえないぞ」ということだ。

ウェブ上のテキストは、一種の「集合知」としての検索エンジン(ないしはウィキペディア)を前提に書かれている。その循環参照のありようは、一見便利なようでいて、どこまでも拡散的で、最終的には、曖昧さから逃れられない。というよりも、それらの編集可能性を留保した多元参照済みのテキストは、無限改訂草稿というのか、決して完成稿に到達しない、永遠の"青稿"なのである。

相反する論文を載せるのが「文藝春秋」のお家芸であったし、懐の深さでもあった。それは自由な言論を守ろうという健全性の顕れでもあった

「いつから「文藝春秋」は、意図的にひとつの政治勢力に加担する、「諸君!」のような編集方針になってしまったのだろうか。もちろん「諸君!」ならばそれでよかった。そもそも「諸君!」は左翼伸張の70年代、保守のための意見発表の場を提供するという目的で発刊されたものであった。一方で「文藝春秋」は違う。在野精神を是とし、森羅万象さまざまな事柄を、遠慮なく掲載することで、論争の場を作ろうという菊池寛の精神を体現するものとしてスタートした雑誌ではなかったか。」

医学博士 柴田高

消臭目的で二酸化塩素の空間除菌剤を設置した小学校では、驚くべきことに学童の累積欠席率が有意に低下することを発見、学術雑誌へ報告している。

「二酸化塩素(ClO2)ガス発生器具は、室内の消臭剤として使用されている。我々は、消臭器具
として極めて低濃度のClO2ガスを放出する市販の卓上消臭用容器を、偶然に学校の教室で使用
した。使用後に思いがけず、連続38授業日間の学童欠席率が、ClO2を設置した教室(1.5%)の
ほうが、設置しなかった教室(4.0%)より顕著に低いことを発見した。両教室の欠席率
(1.5% vs. 4.0%)の間には、有意差が認められた(p < 0.00001)。この期間中の欠席の主
要な原因は、風邪およびインフルエンザであった。ClO2について知られている殺ウイルス活性
から判断して、我々が教室の中で思いがけずに発見した所見は、劇場、病院、航空機などの半
閉鎖空間における呼吸器ウイルス疾患を、その場所から避難させることなく防ぐ上で、極めて
低濃度のClO2ガスが有用であることを強く示唆する。」

http://www.seirogan.co.jp/medical/pdf/report24_j.pdf

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