http://matt.might.net/articles/phd-school-in-pictures/
Ph.D. - [ラテン] Philosophiae Doctor(=英 Doctor of Philosophy)
法学・医学・神学以外の最高学位。 博士号。また博士号をもっている人。
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Ph.D. - [ラテン] Philosophiae Doctor(=英 Doctor of Philosophy)
法学・医学・神学以外の最高学位。 博士号。また博士号をもっている人。
■内容紹介
「読むこと」そして「見ること」で得られるイメージの相違と連関についての議論は古代より続き、いまも多彩な主張が乱立している。それらを精査し、「読書とイメージ」「視覚的隠喩」「小説の映画化」「"物語る絵"のナラトロジー」「小説と挿絵」の五つの視点から、ことばと形象の交叉がもたらす経験とその歴史的変遷を、多くの実例をひきながら問いなおす。
http://djfumiya-in-the-mix.blogspot.com/2010/03/blog-post_1057.html
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■目次
序 7
第�部 ことばとイメージ
第1章 読書とイメージ 12
1 観念とイメージ 12
イメージ化の読み/12 近代認識論における「イメージ」/14
詩と絵画のパラゴーネ/16 詩の絵画的描写/18 バーク/22 レッシング/25
2 知覚とイメージ 27
ウィトゲンシュタイン/27 イメージと知識/28 イメージと知覚/31
3 意味とイメージ 34
意味の規格型と素性/35 イメージ価と「概念的——ペグ」/37
4 読書とイメージ 39
サルトル/40 イメージの「効果」/42 ホメーロスの描写/45
第二章 視覚的隠喩は可能か 48
1 転義とモデル 48
隠喩の代置理論、比較理論/49 隠喩の相互作用理論/50
2 隠喩と類比 53
認識論的隠喩論/53 類比による世界認識/55
3 隠喩と象徴 57
記号論的隠喩論/57 隠喩的例示/58 暗示と象徴/61
4 隠喩の述語限定理論 64
一時的な言語ルール/64 アスペクトの認知/66 述語限定理論/68
5 隠喩と直喩 71
比較と同定の陳述文/72 恣意的直喩/74 隠喩の「含み」/76
6 隠喩とイメージ 78
隠喩のイコン性/78 非言語的隠喩/80
7 絵画的隠喩 83
視覚的ジョークとカリカチュア/83 視覚的駄洒落/86
合成イメージ/89 広告の発話/92
8 映画的隠喩 95
隠喩的モンタージュ/96 映画的文彩/98 説話外的なイメージ/101
第三章 詩と絵画のパラゴーネ 104
1 ことばの優位 104
エクフラシス/104 パラゴーネ/105
2 イメージの形而上学と解釈学 107
イコノグラフィーとイコノロジー/107 ベーム「イメージの解釈学」/108
ベッチマン「美術史解釈学」/111 イムダール「イコニーク」/113
3 「露出した意味」 115
バルト「逐字的メッセージ」/116
4 知覚経験と名指し 118
ブライソン「図像的なもの」/118 構文的な絵画/121 心理学的唯名論/124
5 視像の情熱、形態の欲望 126
位相化/127 言語のテクスチュアと絵画のテクスチュア/128
第�部 小説の映画化
第四章 物語と描写 132
1 描写の位置 132
映画化への欲望と批判/132 補助的言説としての描写/135
描写の近代とリアリズム/137
2 テクスト・タイプと「奉仕」関係 139
「物語に奉仕する描写」・「描写に奉仕する物語」/140
3 意味の統辞法、知覚の統辞法 142
明示的な描写/143 モンタージュ——知覚の統辞法/145 描写の物語/147
4 描写の物語 149
心的イメージと知覚映像/149 小説の描写/151
映画の描写/152 「効果」の対比と異同/154
第五章 語りのモード 156
1 語りの「態」 156
物語言説と物語内容/156 「不可視の観察者」と語り手/158
2 語りの「視点」 161
〈背後から〉の視点/162 〈ともにある〉視点/165 内面のリアリズム/168
〈情況〉の視点/173 〈外部から〉の視点/177 物語の叙法のパターン/178
3 映画における語りの視点 180
1.〈全知〉の視点、〈情況〉の視点/181
2.〈ともにある〉視点/185 ● 三人称と一人称/188 ● 「一人称映画」/190
3.〈外部から〉の視点/191 語りの視点の混合と移行/193
第�部 「物語る絵」のナラトロジー
第六章 「物語る絵」の叙法 196
1 絵画の「物語」 196
タブローという装置/196 絵画のナラトロジー/200
2 物語言説のメディア——中世の「物語る絵」 202
ミニアチュール/202 ビザンチンの壁画/205
ステンドグラス/207 聖なるテクストの優位/210
3 エクフラシスの修辞学 211
絵解きとしてのエクフラシス/211 ゼウクシス的イリュージョニズム/213
イコン的イリュージョニズム/215 超越的な〈全知〉の視点/217
4 描かれた世界の自立 220
ジョットの革新/220 「含蓄ある瞬間」/223
ヒューマニストのエクフラシス/225 アルベルティの「構図」と遠近法/227
ヴァザーリの美的なエクフラシス/228
5 指示者のモチーフ 230
超越論的〈全知〉の視点/230 修辞的イリュージョニズム/232
美的イリュージョニズム/234 「劇的クロース・アップ」/236
6 画中の代理人——「母と子」と「後ろむき」のモチーフ 239
奥行き方向の劇的緊張/239 「母と子」のモチーフ/242
「後ろむき」のモチーフ/245
7 美的イリュージョニズム 248
描写的リアリズム/248 ディドロの美的なエクフラシス/251
美術カタログ/255 イメージに奉仕することば/257
8 「没入」のモチーフ 259
〈情況〉の視点と絵画的描写のリアリズム/259
没入のモチーフと内面性/262 「演劇的」と「タブロー」/265
9 仮象論の逆説と〈ともにある〉視点 269
観者の現前と不在のパラドックス/269 観者の美的な存在情況/271
肉眼の「視角」と語りの「視点」/273 物語る絵の〈ともにある〉視点/276
交叉する視線のドラマ/280
10 情況のタブロー 282
メロドラマ/282 明暗法——光の遠近法/284 物語る絵の叙法のパターン/286
1.超越的〈全知〉の視点/287
2.超越論的〈全知〉の視点/287
3.〈ともにある〉視点、〈情況〉の視点/288
第七章 近代絵画における語りの視点 290
1 小説と絵画の遠近法 290
ケンプの受容美学/290 「観者の位置」に自覚的な構成/290
「多重遠近法的」な構成/292 小説と絵画のパラレリズム/294
2 目撃者の「視角」と語りの「視点」 299
語りの「態」と「叙法」/299 目撃者と「内包された読者」/300
カメラマンと映画監督と画家/305
指示者のモチーフ、後ろむきのモチーフ/306
3 〈ともにある〉視点の画面構成 309
エッグ《過去と現在》/309 クリンガー《母》/312 スケッチの美学/314
第�部 小説と挿絵
第八章 近代小説と挿絵 318
1 挿絵の歴史 318
十五世紀/319 十六世紀/320 十七世紀/321 十八世紀/323 グラヴロー/327
2 形象のディスクール——グラヴロー 330
ルソー『新エロイーズ』挿絵/330 挿絵の記号論的分析——バシィ/333
語りの光源・サン=プルー/336 読者の反応——ラブロスの分析/338
3 私的な情感——コドウィエツキーとストザード 340
コドウィエツキー/340 ストザード/343
4 近代的叙法の成熟 346
ターナー——廃墟・ゴシック・ピクチャレスク/346
ビュイックとクルックシャンク——ビネット/348
小説の挿絵と舞台のタブロー/351 挿絵の映画的手法/352
ラファエル前派/355 内省の挿絵に対する批判/357
第九章 明治期小説の「改良」と挿絵 361
1 小説の「改良」 361
坪内逍遙『小説神髄』/362 内面のリアリズムと文体/365
制度としての漢文体/368
2 『当世書生気質』 370
新味と限界/370 二葉亭四迷『浮雲』/374
3 言文一致運動 377
語尾と待遇感情/377 「である」体の採用/379
4 逍遙以後の小説 381
「人間派」と「没理想」/381 西洋近代叙法の例外的さきがけ/383
「自叙躰」の流行/385 三人称〈ともにある〉視点の確立/390
5 日本における「物語る絵」 393
絵巻の文法/393 江戸の戯作本/396 洋風画/398
6 戯作下絵から小説挿絵へ 400
来日画家の影響/401 洋風挿絵受容の限界/404 新聞小説と挿絵/407
浮世絵系挿絵/409 容斎派の画家たち/412 洋画家たちの参入/413
7 小坂象堂と自然主義 415
日本画の自然主義/415 无声会/419
8 梶田半古と新風 422
烏合会/422 梶田半古の日本画/424 富岡永洗と梶田半古/426
右田年英と松本洗耳/429 新旧挿絵の混在/431 梶田半古とアール・ヌーボー/433
9 鏑木清方の小説経験 437
西洋画の翻案/438 情況のタブローと〈ともにある〉視点/441
註 445
あとがき 509
事項索引 1
人名索引 7
参考文献 13
■西村 清和
1948年京都府生まれ。東京大学文学部美学芸術学科卒業、同大学院修了。東京大学大学院人文社会系研究科教授。著書—『遊びの現象学』(勁草書房、サントリー学芸賞)など(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
■内容紹介
1844年7月,32歳のディケンズは家族とともにイタリアに向けて出発した.ジェノヴァを拠点に,およそ1年にわたって,ヴェネツィア,ピサ,ローマ,ナポリなど各地を見て回った.本書はディケンズ独特の観察眼が発揮された臨場感あふれる紀行文となっており,随所に滲み出ているカトリック批判はとりわけ印象深い.本邦初訳.
1844年に家族と馬車でイタリアへ出かけたディケンズが、約1年にわたって各地を旅した紀行文集。街や人の醜さを容赦なくとらえながらも、ヴェネツィアは夢のように揺れ、ポンペイの灰とヴェスヴィオ山は絵画的に迫る。皮肉と風刺のたっぷりきいた文章はやや読みづらいが、充実した訳注に助けられる。
Pictures from Italy (1846年5月末)
日刊紙≪デイリー・ニューズ≫に連載した(1846年1月21日〜3月)イタリア旅行記「旅のスケッチ」(Travelling Letters)に5章加えたもの。
■目次
読者のパスポート
フランスを経由して
リヨン、ローヌ川、およびアヴィニヨンの"鬼婆"
アヴィニヨンからジェノヴァまで
ジェノヴァとその周辺
パルマ、モデナ、そしてボローニャへ
ボローニャとフェッラーラを通過
イタリア幻想
ヴェローナ、マントヴァ、そしてミラノを経由し、シンプロン峠を越え、スイスへ
ピサとシエナを経由してローマへ
ローマ
走馬灯
■内容紹介
シオニズム運動とイスラエル建国がいかにユダヤの教義トーラーに反すると考えられてきたかを歴史的に辿る。パレスチナ問題と反ユダヤ主義の歴史の冷静な理解に不可欠の書。
■帯
〈ユダヤ人国家イスラエル〉という虚構
政治的公正さの風向きの変化で危うさが目立つ国。
シオニズムのユダヤ教僭称/キリスト教のシオニズム化/のおかげで
道義的検証を免れてきた軍事パワー。
これを神への反逆と告発するユダヤ教思想、
その諸潮流を照らし出す必読書。——板垣雄三
シオニズムがユダヤ教の延長にあるものと
考えている人びとには、本書を読むことを薦めたい。
だが、イスラエルが真にユダヤ教の国であるなどと
信じ込んでいる人びとには、本書を読むことを必須としたい。
——シュロモ・サンド(テル=アヴィヴ大学歴史学教授)
■目次
日本語版の読者へ
ヨセフ・アガシ教授による序文
プロローグ
第一章 いくつかの指標
非宗教化と同化/歴史——闘争の舞台
反シオニストと非シオニスト
第二章 新しいアイデンティティー
メシア主義から民族主義へ
「非宗教的ユダヤ人」の誕生
不完全な転身
ユダヤ人、ヘブライ人、イスラエル人?
現代ヘブライ語と非宗教的なアイデンティティー
第三章 〈イスラエルの地〉、流謫と帰還のはざまで
戒律の侵犯と流謫
メシアに対する用心深さ
シオニズムの理念
シオニズムの企図
第四章 武力行使
成文化された平和主義
ロシアのユダヤ人——苛立ちと暴力
矜持と自衛
解放と植民地化——民族主義の二つの顔
度重なるイスラエルの勝利
テロリズムの起源に
第五章 協調路線の限界
〈聖地〉におけるシオニズムの抵抗
ディアスポラの地におけるシオニズムの拒絶
国家との関係
国家とユダヤ教
第六章 シオニズム、ショアー、イスラエル国
大災厄の原因
ショアーに対するシオニストたちの姿勢
奇跡的再生か、継続的破壊か?
第七章 破壊の予言と存続のための戦略
ユダヤの連続性のなかにイスラエル国が占める位置
公的な議論とその限界
約束か、脅威か?
■著者紹介
ラブキン,ヤコヴ・M.
1945年、旧ソ連レニングラード(現サンクト=ペテルブルク)生まれ。レニングラード大学で化学を専攻、モスクワ科学アカデミーで科学史を学ぶ。1973年以来、カナダ、ケベック州モンレアル(モントリオール)大学で歴史学を講じる(現在、同大学教授)。科学史(とりわけSTSの観点から)、ロシア史、ユダヤ史を専門とする。2008‐09年に二度、日本に滞在し、東京大学大学院人文社会系研究科、同志社大学一神教学際研究センター(CISMOR)などで、シンポジウム、公開講座、研究会などを精力的にこなした
菅野 賢治
1962年、岩手県生まれ。パリ第10(ナンテール)大学博士課程修了。一橋大学法学部助教授、東京都立大学人文学部准教授を経て、東京理科大学理工学部教授。専門はフランス語フランス語圏文学(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
Cocco、その新たなるステージを全て語る!
奥田民生×吉井和哉、ゆず、後藤正文×木下理樹
大木×ホリエ×TAKUMA×生形、ビークル解散、銀杏BOYZ etc……
出版社: ロッキングオン; 不定版 (2010/7/15)
ASIN: B003UVHRHA
発売日: 2010/7/15
商品の寸法: 22.8 x 16.8 x 1.8 cm
■内容紹介
四季の食材について学名から故事来歴、味覚、調理、詩歌に至るまで鋭敏な感覚で味わい尽した究極の味覚随筆。
歳時記は、四季折々の風物を愛でる日本人の生活に密着した形式として、日本の伝統文化を形作ってきました。本書は、屠蘇や七草といった正月の行事に始まり、百合根・山椒・たけのこ・みょうが・ほうれん草などの野菜・根菜から、柿・あんず・ざくろ・いちじくなどの果実、しじみ・あゆ・たら・牡蠣などの魚介類にいたるまで、四季の食材を取り上げて、日本人の食生活を歴史や地域とのかかわりで解説した読みものです。博識無双の著者のことゆえ、食材の名称、調理法、故事来歴は古今東西に及び、引用される挿話は日本の古典から旧約・新約聖書まで広範にわたります。むろん短歌・俳句の引用にも事欠かず、みごとな詞華集ともなっています。
本書は、全国の味の名店の連合PR誌「味覚春秋」に1985年から2000年まで16年の長きにわたって連載された未刊のエッセイから抜粋したもので、著者の『味覚歳時記
木の実・草の実篇』(角川選書・1984年)と好一対になる内容の本です。
■目次
序 ポモ・ドーロ!(以下に「立ち読み」可能箇所掲載あり)
新年
1 屠蘇
2 小豆
3 餅
4 ななくさ
春
5 つくし
6 百合根
7 慈姑
8 独活
9 若布
10 蜆
11 鮒鮨
12 芹とその仲間
13 山椒
14 水菜
15 菠薐草
16 蕗
夏
17 茗荷
18 蓼
19 茄子
20 ローズマリー
21 蓮
22 菖蒲
23 辣韮
24 薄荷
25 そらまめ
26 鮎
27 筍
28 杏
秋
29 目箒
30 菊
31 茘枝
32 石榴
33 梔子
34 鰯
35 無花果
36 茴香
37 落花生
38 柿
39 郁子
40 梨
冬
41 沢庵
42 蒟蒻
43 蕪菁
44 鱈
45 葱
46 豆腐 200
47 大根 204
48 仏手柑 208
49 牡蠣 212
50 味噌 216
雑
51 麩 222
52 チェリモヤ
53 エスプレッソ
54 むかしなつ菓子
跋 塚本青史 238
■立ち読み
序 ポモ・ドーロ!
この数年来「こだわりのグルメ」などという言葉を、然るべき人(主として女性)の談話の中で聞くことがしばしばある。私は「こだわり=拘泥」と解している。明らかに負(マイナス)要因であり、否定を前提とし、頑として許容せぬレジスタンスを抱えている。
ところが現代語訳(?)は右にあらず、かたくなに人のアドバイスを受けつけず、自説を決して譲ろうとしない心理挙動が「こだわり」と考える他はない。
珍味佳肴の世界を手探り足探りで究め、それにあえて「執着」して、是も非もなく「わが道を往こう」とする処世術であり、自己主張態度であろう。
某国語事典には「こだわる」=「どうでもいい問題を必要以上に気にする」と註している。もっとも名人気質にも天才肌にも、ある一面をクローズアップ(ダウンかも知れない)すればこの傾向は多々感じられる。
「及ばざるは過ぎたるに勝れり」なる諺も仄聞するのだが、個人個人の方法論に俟つべきだ。事、「食」に関しては、この「限度」が百人百種で、どれが中庸を得ているのか、どれが過激なのかは即断不能であろう。
私説「ほろにが菜時記」は一九八五年(昭和六十年)の四月に始まった。九九年十二月で一八七回に達する。全く平凡な日常茶飯事の側面紹介に過ぎないが、私の言語に関する潔癖は食品等の呼称にまさに「こだわり」つづけて来た。たとえば「アボカード」だが、これはその名さえも、市場一般では八〇%間違っている。中・南米産のこの果実、当然スペイン語を背後においているのだから「アボカード」と発音すべきだ。(VはBの発音。終りから二つ目のシラブルが揚になるから、長音だ。ところが、一九九六年八月頃、百貨店に行こうが果実・野菜店へ行こうが、八〇%は「アボガド」の四字表記になっており、誤謬を指摘すると、「出荷先から、この通りの『名札』や『送状』がついて来ています」の一言で追っ払われた。場末の野菜果物市へ行った方が、素直に私の発音に従順であった。こんな商品名は序の口の門前、食堂・茶房・レストラン・カッフェ自体の名すら間違っていることの方が多い。
たとえば和菓子の店、「菊屋」の喫茶部門が大阪には二軒あるが、いずれも「クリサンテーム」という看板を出している。たしか、「菊=chrysantheme」は「クリザンテーム」が正しい。言っても始まるまいし、営業主が時として、心ある人の批評にどう返答するかが問題だ。
「avocado=アボカード=鰐梨」もなぜ売場の商品名が「アボガド」になるのか、TVの出演者がなぜこれの訂正を遅蒔ながらでも提出しないのか、スペイン語のV=Bだから「アヴォカード」とは表記できないが、一方の「C」が「G」に変ることはあり得ない。
中島敦三十三歳の名作「光と風と夢」には「アボガドー」と表記されているが、これはサモア諸島での手記、それも酋長の談話に倣っているから異論は無理だろう。
食物の呼称が間違っていると、もう賞味する気がなくなるのは、私の奇妙な潔癖のなせるわざだが、これは一方「歌人=言語芸術家」の宿命と考えてほしい。
珈琲=コーヒー、これも危っかしい発音の一つだが、私は「エスプレッソ」マニアで日に一杯飲まぬと仕事が宙に浮く。
二年前イタリアで友人と某空港の小さな珈琲カウンターで、四人連ゆえに「クヮトゥロ・エスプレッソ」と注文したら、使用人のセニョリーナがにっこりして「クヮトゥロ・エスプレッシ?」と反問された。全く以てお粗末なミス。複数は語尾が「i」に変ることくらい、イタリア語一週間学べば自然に出てくるのに。
私は一日にエスプレッソ三杯は賞味する。エスプレッソメーカーも置いて既に十年以上。それにしても、イタリアでは「トマト」が「ポモ・ドーロ(黄金の果実)」とは、いささか誇張がすぎると思いますがね。
(続きは本書でお読み下さい)
■塚本邦雄(つかもと・くにお)
1920年、滋賀県生まれ。歌人、評論家、小説家、元近畿大学教授。1951年、中井英夫・三島由紀夫に絶賛された第一歌集『水葬物語』でデビュー。反写実的な作風によって、岡井隆や寺山修司らとともに前衛短歌運動を牽引した。短歌結社・玲瓏の主宰者となる。歌集・評論集・小説集など多数。著作を集成した『塚本邦雄全集』(全15巻別巻1、ゆまに書房)がある。2005年没。