"Google ショック"の本質を衝く必読書!
▼「グーグルブック検索」 の衝撃とそれに伴う議論の沸騰においても見落とされている議題(文学テキストのデジタル化の問題点と可能性、テキストをめぐるコミュニケーションの変容)について、本質的な議論を展開。From
Gutenberg to Google: Electronic Representations of Literary Texts,
Cambridge University Press, 2006. の翻訳。
▼ 文学研究は何に基づいて行われるのか。モノとしての本か、あるいは情報としてのテキストか。人文学の研究はそもそも何を資料としてきたのか。また、今後は何を資料としていくのか。デジタルの「本」の氾濫は、文学研究の制度、ひいては、人文学研究の制度全体に根本から揺さぶりをかける。「グーグルブック検索」の問題は、たんに作家や出版社といった供給者側の問題にとどまらない。それは
「本」をいかに読むのか、使うのかという読者、利用者、研究者の側の問題でもある。
▼文学、人文諸科学の制度のありようと直結する基盤の世界規模の変容を説き、人文科学の歴史と未来を見据えた本書の記述は 「デジタル化」
を考える際の必読書・基本書たりえる内容となっている。
From Gutenberg to Google : electronic representations of literary text
s / Peter L. Shillingsburg. -- (BA78873308)
http://peter.shillingsburg.net/
Cambridge, UK : Cambridge University Press, 2006
v, 216 p. ; 24 cm -- : hardback;: paperback
注記: Includes bibliographical references (p. 200-208) and index
ISBN: 0521864984(: hardback) ; 0521683475(: paperback)
著者標目: Shillingsburg, Peter L.
分類: LCC : Z286.E43 ; DC22 : 070.573
件名: Electronic publications ; Scholarly electronic publishing
■目次■
序 章
第1章 二一世紀における手稿、本、そしてテキスト
第2章 複雑性、耐久力、アクセス可能性、美、洗練、そして学術性
第3章 書記行為理論
慣習――いった/いわない、意図した/理解した
時間、空間、物質性
モノとしてのテキスト
意味の生成――書かれたこと、書かれていないこと、理解されたこと
知識、不確かさ、そして無知
書記行為理論の要素
第4章 書記行為を再現するための電子的インフラストラクチャー
Ⅰ 電子ナリッジサイトのための概念空間
村をあげての仕事
業界標準とモジュール式構造
材料、構造、能力
Ⅱ 実践的な問題
資金をどのように調達するのか?
言語とソフトウェアによる解決策のいくつか
新しいプロジェクトと遺産プロジェクト
分 業
編集上の問題――ケーススタディ
編集版の構築
遺産ファイルの変換
品質向上
二つの電子的解決策
ウィリアム・サッカレー全集の事例
ソフトウェアの実際的問題
第5章 ヴィクトリア朝小説――読みを形づくる形
第6章 電子テキストのじめじめした貯蔵室
第7章 編集文献学の競合する目的を調和させることについて
第8章 聖人崇拝、文化のエンジニアリング、モニュメントの構築、その他の学術版編集の機能
Ⅰ 永遠に続く否定
Ⅱ 無関心の中心
Ⅲ 永遠に続く肯定
第9章 審美的な対象――「私たちの喜びの主題」
第10章 文学研究における無知
註
編集文献学の不可能性――訳者解説に代えて
参考文献
人名・作品名索引
シリングスバーグ,ピーター[シリングスバーグ,ピーター][Shillingsburg,Peter L.]
米国ロヨラ大学教授(英文学科)。2003年から2008年まで英国ド・モンフォール大学教授。2005年より同大学文献学センター(The
Center for Textual
Scholarship)長を務めた。学術版W.M.サッカレー全集編集責任者。サッカレーを中心とするヴィクトリア朝文学研究に関する著作がある
明星聖子[ミョウジョウキヨコ]
埼玉大学教養学部准教授。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程修了。博士(文学)。著書に、『新しいカフカ―「編集」が変えるテクスト』(慶應義塾大学出版会、2002年)。同書にて日本独文学会賞受賞
大久保譲[オオクボユズル]
埼玉大学教養学部准教授。東京大学大学院総合文化研究科中退
神崎正英[カンザキマサヒデ]
ゼノン・リミテッド・パートナーズ代表。京都大学文学部卒業。コロンビア大学でMBA取得(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
A5判/上製/374頁
初版年月日:2009/09/25
Cコード:C3036
税込価格:3,360円
タイトル グーテンベルクからグーグルへ : 文学テキストのデジタル化と編集文献学
責任表示 ピーター・シリングスバーグ著
責任表示 明星聖子,大久保譲,神崎正英訳
出版地 東京
出版者 慶応義塾大学出版会∥ケイオウギジュクダイガクシュッパンカイ
出版年 2009.9
形態 340,13p ; 22cm
注記 原タイトル: From Gutenberg to Google.
注記 文献あり 索引あり
ISBN 978-4-7664-1671-8
入手条件・定価 3200円
NS-MARC番号 103072500
個人著者標目 Shillingsburg,Peter L.∥シリングスバーグ,ピーター・L.
個人著者標目 明星/聖子∥ミョウジョウ,キヨコ
個人著者標目 大久保/譲∥オオクボ,ユズル
個人著者標目 神崎/正英∥カンザキ,マサヒデ
非統制件名 書誌学∥ショシガク
非統制件名 編集∥ヘンシュウ
NDC(9) 020
本文の言語コード jpn: 日本語
書誌ID 000010580737
■内容紹介■(出典:人文書院HP 福島聡氏のコラム「本屋とコンピュータ」87回)
英文学研究者であり学術版全集の編集に携わるピーター・シリングスバーグの『グーテンベルクからグーグルへ』(慶應義塾大学出版会
2009)を読むと、多くの異本を照合し、テキストを確定して「定本」をつくる作業がいかに大変で困難なものであるかを思い知らされる。
筆写時の間違いはさまざまな写本のコンテンツに多様性(バラエティ)を与えたであろうし、活版印刷が始まった後でも版による違いや異本の存在は珍しいことではない。「正確」に伝達すべき「オリジナル」がどの時点のものかを確定することは、容易なことではない。
"テキスト伝達をめぐる作業の大部分においては、そこに関わる人々(秘書や編集者や植字職人)は、まずテキストを解釈し、何らかの形で理解しなければならない、そうすることによって初めて、製品化されるべき新しい形へ向けてテキストを再構成し、伝達することができるのだから。したがって、これは機械的なプロセスではなく、精神が関わっているのだ。だから製作にかかわる人々は、まず受容行為を行う読者として行動し、その後で新しい形を生成し創造する行為者となるわけだ。"(『グーテンベルクからグーグルへ』P102)
シリングスバークは、"現代では、テキストはさまざまな視点とさまざまな使用法に答えなければならないのだから、すべての目的について他のいかなるテキストよりも重要であると主張しうるテキストなど、本質的には存在しない。したがって、最終的な(ゴール)テキストとして全員が納得できるような、唯一の版としてのテキストもない。"(P109)と言い切る。自ら学術版全集の編集に情熱を以て取り組んできたにもかかわらず…、否だからこそと言うべきかもしれない。
それでも、いかに困難が伴おうと、或いは困難が大きければ大きいほど、「定本」というテキストの形態(メディア)は、固く揺るぎないテキストの乗り物(ヴィーグル)としての冊子体(=印刷本)に相応しいと考えられる。原理的に容易に変更可能なディスプレイ上の文字と違って印刷された文字の変更・改竄が困難な冊子体にこそ、コンテンツにカノン(典拠)性が宿ると思われるからだ。実際、「定本○○○○全集」という(願わくば函入りの)本たちが書棚に整然と並んでいる風景は、まさに冊子体の面目躍如、とも言える。
ところが、事はそのように単純ではない。
テキストは、さまざまなコンテキストに囲まれてある。一つのテキストは他の多くのテキストの影響を受けている。さらに、参考文献や註に挙げられる多くのエクリチュールだけでなく、時代背景をはじめ、書かれた時の状況もまた、すべてコンテキストなのだ。
"読者がテキストに向いあって、それを「理解する」あるいは解釈するプロセスには、コンテキストを想定する作業が含まれている。そうしたコンテキストは、ふつうはテキストに含まれていないが、そこから推測可能なあるいはそれに帰属させることができるものである。歴史の知識が豊富な読者であれば、その読者が想定した「いわれていないこと」が、テキストの産出者によって巧みにいわれないですまされたことと同じ、あるいは非常に似ているという可能性が高い。"(P97)
そうした読書を援けるためには、「定本」は、さまざまなコンテキストにリンクが貼られた「ハイパーテキスト」でしかあり得ない。
シリングスバーグが"重要なのは、常に進歩し続ける電子的ツールを使うことによって、同じ基本的な材料から、異なる読者が異なるときに異なる要求を満たせるようになること"(P133)と言う所以である。
その上で、冊子体(=印刷本)の存在理由(レゾンデートル)とは、何だろうか?
■書評■[評者]仲俣 暁生 (文芸評論家)
電子化で文学はどうなるか
グーグルが進める「電子図書館」構想に、世界中の作家や出版社が大きな懸念を抱いている。しかし、検索エンジンが書物文化を滅ぼすといった極論を別にすれば、グーグルの試みに対する出版界の不安は、著作権をめぐるものか、心情的な反発のいずれかである。
他方、学術研究の世界にもグーグルの「電子図書館」構想は大きな問いを突きつけている。検索エンジンを備えた巨大な電子テキスト・アーカイブの出現は、かつて活版印刷がもたらした革命に等しい巨大な変化をもたらす。テキストの民主化が進む一方で、紙からデジタルへの過渡期には、さまざまな混乱が生じる。文学作品がネットワークで配信されるのが当然になったとき、文学研究には何が起こるのか。本書はこの問いに真正面から答えようとした。
著者のシリングスバーグは、学術版サッカレー全集の編集責任者を務めたヴィクトリア朝文学の専門家。学術の世界では遠からず、紙に代わり電子テキストが主流になるという見通しのもと、「編集文献学」という新しい学問分野の知見を踏まえ、書物電子化の問題点を具体的に論じていく。
電子テキストが一般化する時代には、文学研究における「テキスト」を決定していく作業が、紙の本や手稿が前提だった時代に比べ複雑になる。シリングスバーグは「書記行為理論」という独自の理論にもとづき、テキストが受容されるプロセスにおいて版(エディション)のもつ意味を重視する立場をとる。したがって学術用にふさわしい電子編集版は、特定の版に基づく単線的なテキスト・アーカイブではなく、過去に刊行されたあらゆる版についての付随情報をもつ「ナリッジサイト」であるべきだと説く。
日本では商業的な「個人全集」が学術版の役割を兼ねてきた。書物電子化が進むなか、日本独自の「編集文献学」は困難だと語る訳者の後記も、重要な問題提起である。
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慶應大学出版会から、ビーター・シリンズバーグという見慣れない著者による『グーテンベルクからグーグルへ―文学テキストのデジタル化と編集文献学』
という本が出ている。昨日の東京新聞に私も短い書評を寄せたが、朝日新聞にも小杉泰氏による、この本へのさらに長く適切な書評が載っている。
これは一般的な書物について論じた本ではなく、電子メディア時代の「学術編集版」、つまりアカデミックな研究のための文献となりうる版(エディション)について論じた本であり、その基礎となる学問体系として日本には馴染みのない「編集文献学」という分野があることが紹介される(ここでの編集は日本でいう「校訂」などに近いニュアンス)。
また、この学問分野においてシリンズバーグは独自の「書記行為理論」という考えを打ち出しており、このふたつの新しい概念を前提に議論が進むため、一般的な意味での「インターネット時代に本はどうなる?」という関心に応えてくれるわけではない。また、以前に邦訳も出たスヴェン・バーカーツの『グーテンベルクへの挽歌』のような、保守主義者による後ろ向きな本ではない。むしろその逆である。
シリンズバーグは、少なくとも「学術編集版」においては、近い将来に紙の本から電子テキストへの移行が必至と考えており、それゆえに、「電子テキスト時代の学術編集版はいかにあるべきか」をつきつめて考えていく。サッカレーの専門家として、過去のさまざまなエディションにみられる混乱を知り尽くしているシリンズバーグは、プロジェクト・グーテンベルクのようなテキスト・アーカイブではダメで、異なる全てのバージョンを網羅した「ナリッジサイト」であるべきだと主張している。
日本の青空文庫も含め、「読書」のためのテキスト・アーカイブはいくらでもあるが、文学研究に本格的に役立つそれは、日本にはまだそれほどたくさんはないだろう。書誌学や文献学には、これまでほとんど関心がなかったが、直木賞をとった『鷺と雪』に至るベッキーさん三部作があまりに素晴らしく、十数年ぶりに北村薫の作品をまとめて再読しており、芥川龍之介の短編をめぐる書誌学ミステリー『六の宮の姫君』を読み返して感激したばかりだったので、私もなんとかシリンズバーグの議論に頭がついていけた。
この本で紹介されているものの一つに、ダンテ・ガブリエル・ロセッティのアーカイブがある(ちなみにブラウザはIE以外を使うことが推奨されている。IEだと表示ができないコンテンツがある。Firefox、SafariはOK)。
最近では「漱石財団」の創設と解散をめぐる話題があったが、本来なら財団の前に、きちんとした「漱石アーカイブ」があってしかるべきだろう。青空文庫から個別の作家ごとの詳細な文献サイトを、たとえば「芥川龍之介アーカイブ」「坂口安吾アーカイブ」のように独立させていって、そこに国文学や近代文学研究者の論文がリンクされているような構図ができると、一般の読者も関心を寄せるのではないか。「電子テキスト」をめぐる議論のレベルがいつまでも向上しないのは、現実にネット上にある日本語文献の量が、あまりにも足りないことにも起因していると思う。
もうひとつ、この本の読みどころは、訳者の一人である明星聖子氏の「苦悩」である。下記のサイトに、明星氏による短いエッセイが寄せられており、その「苦悩」の一端が語られている(『グーテンベルクからグーグルへ』のあとがきで書かれている内容はもっと壮絶なので、そこだけでも必読である。)
彼女は本書を「悲しい予言の書」と表現しているが、シリンズバーグによる本文にはそうした悲痛なトーンは皆無であり、著者と訳者の間にあるこの大きなギャップこそが、本書の本当の主題である。
yomoyomoさんのブログで、この本のサポートページもできていることを知る。この本に対する日本側の「返答」が、理論としても実践としても待たれるところじゃないだろうか。
(【海難記】Wrecked on the Sea からの転載)
■書評■[評者]小杉泰(京都大学教授・現代イスラーム世界論)
電子本の登場が人文学を変える
500年前にグーテンベルクの活版印刷が世に出て、本の世界は劇的に変わった。それまでの手書きの写本は、多量の部数を発行できる印刷本に取って代わられた。それと同じくらいの巨大な変化が今起きつつある。
新しい書物の形態を「電子本」と呼ぶならば、それとの比較でこれまでの本は「印刷本」と呼ばれるようになるであろう、と著者は言う。電子本の登場は、文献を扱う人文学を根底から変えつつある。
著者は近代英文学、特にビクトリア朝文学の専門家として、19世紀の小説のテキストを批判的に考証してきた。その成果を紙に印刷された本の形で出版する場合、どうしても限界が生じる。
作家の手稿や、初版・再版、ペーパーバック版などの種々の版、同時代的な資料などから、学問的に厳密な考察をおこなっても、そのすべてを書物に入れることはできない。それに対して、デジタル化され、インターネットで読む「本」ならば、いくらでもテキストや資料を収録し、相互参照することができる。
早くも70年代から文学テキストのコンピューター化に取り組んできた著者は、インターネット時代に入って、そのようなデータベースとしての電子本を提唱している。
副題にある「編集文献学」とは欧米で発達した学問で、テキストを比較・考証し、作品の意味づけをおこなう。特に著者は、作品の著者と読者のみならず、その途中にある印刷・編集の工程をも含めて「書記行為」と呼んで、著述と読書にまつわる興味深い議論を展開している。
学問的な考証と編集ですら「介入」であり、解釈行為であるという主張は明晰(めいせき)でわかりやすい。それによれば、もはやテキストの「標準版」を作ろうとする時代ではない。だからこそ、刊行日とモノとしての形態に縛られている印刷本ではなく、限りなく更新できる電子本がよい、というのである。
ちなみに、編集文献学者による折衷的な判断をよしとする英米の態度は、著者の手稿が存在しないシェークスピア以来の伝統を反映している。それに対して、自作の出版に深く関与したゲーテを源流とするドイツでは、より権威を持つ編集を志向するという。ドイツの植字工の方が几帳面(きちょうめん)だったであろうという指摘も含めて、両者の比較が面白い。
デジタル時代を象徴するグーグルでは、瞬時に目的のテキストにたどり着ける。しかし、その検索ランキングは人気順にすぎないし、情報の99・9%は学問的に信頼がおけない、と著者は言う。学術版編集による質の高いテキストの供給を、自分たちの責務とするゆえんである。
現在のところ電子書籍の多くは印刷本のデジタル化にすぎないが、電子本が「本」の主流となる日は意外に近いかもしれない。人文系の学問と知の体系が、著者のように前向きにこの変化に対応するためには、課題は複雑で考えるべきことは多い。
■書評■[評者]
英文学研究者であり学術版全集の編集
に携わる著者は、「電子メディアがテキ
ストの性質を変えた」ことを痛感する。
そもそも書物とは、著者の手稿からは
じまる一連の「書記行為」の産物である。
それに関わる人々(秘書や編集者や植
字職人)の手を経ながら、テキストは
さまざまなコンテキストの中を動いて
いく。コンテキストは、エクリチュー
ル(書かれたもの=異本、異なる版など)
に限らない。書かれた時の、そして読
まれる時の歴史状況をまたコンテキス
トなのだ。
電子メディアの誕生、そしてハイパー
テキストという概念(アイデア)が、さまざまなコン
テキストとのリンクを可能にし、文学作
品を読むという行為を援け、或いはその
一部となっていく。そうしたリンクが不
可欠だとすれば、著者が想定するよう
に、これからの学術版全集は電子テキス
トでしかありえないかもしれない。
だが一方、書物は、〝単純だがしっか
りしたテキストを望む一般読者と、テ
キストの来歴のすべてを必要とする少
数の学者族の、相反する要求に応えよ
うと〞苦闘してきたのだ。〝重要なのは、
常に進歩し続ける電子的ツールを使う
ことによって、同じ基本的な材料から、
異なる読者が異なるときに異なる要求
を満たせるようになること〞と、著者
も言う。
だとすれば、「脚注や、巻末註、付録、
コメンタリ、索引」という「創意工夫」
を生み、〝コンパクトな形態やリニアな
性質は保ちつつも、ランダムアクセスを
可能にした〞印刷本=冊子体もまた、「一
般読者」の要求に応える形
メディア態として、未だ有効性を失ってはいないだろう。
■『グーテンベルクからグーグルへ』訳者インタビュー(上)■
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ピーター・シリンスバーグ著。九月に慶応大学出版会から出されたこの本、編集文献学という聞き慣れない分野について紹介すると共に、テキストのデジタル化が人文学研究に与える影響を考察している。
なんて書くと難解そうだが、一般読者もターゲットにした書き方で、ピーター・ドラッカーの本を読める人なら読みこなせるくらいのわかりやすさを備えている。本好きの人、あるいは編集者や著者なる人種の方なら、「編集という名の森」copyright朝日山wの探索を楽しめる...全く読んだことはないのだけど、編集文献学の入門書としても優れているはずである。
内容は著者・編集者・読者の関係が、デジタルテキスト化によってどう変わるのか?だと思われる。
思われるというのは、恥を忍んで書くと、実はこの本まだ二章までしか読んでない状況で拙文を書いているからだ。個人的な事情でメルマガ発行までに通読する余裕がない。通読してもいないのに書評は書けない。
それで訳者の明星聖子先生へのインタビューの形式を取り、通読しつつ質問をぶつけるという、先生には大変不躾なやりかたでの協力をお願いせざるを得なくなった。それでもおつきあい下さる先生のご厚情に感謝いたします。
【質問1】
もともとカフカの研究をされていた先生が編集文献学に向かわれたのは、ドイツで出された3種類のカフカ全集、特に「批判版カフカ全集」に触れたところがきっかけですね。
全集とは、カフカとか、特定のテーマのテキストを全て網羅している「データベース」だと思っている人が多いと思います。全てを網羅しているなら全集はみんな一緒だろ?みたいな理解です。ドイツで出た3種類の全集が「編集」によってどのような違いを見せたのでしょうか?
【回答1】
カフカの編集について考える際、もっともポイントとなるのは、現在彼の作品として理解されているもののほとんどは、没後に遺稿から出されたものだということです。よく知られている『審判』も『城』も、ようするに未完結、未公表の草稿です。彼の友人マックス・ブロートは、できるだけ多くの人にカフカに親しんでもらおうと、それらを読みやすく整えて、本にしました。
次の「批判版カフカ全集」は、カフカの名声が世界に十分広まったあとで、逆になるべく手を加えないで出そうという意図で作られたものです。例えば、「狩人グラッフス」いう短編は、ブロート版ではまとまった「作品」らしい形を見せていますが、批判版では、ノートの上にいくつかの断片として書かれたままの、「作品」になる以前の姿が示されています。逆にいえば、ブロートは、それらの断片をつないで、タイトルも自らつけて、作品に仕立てたといえるわけです。
『審判』も『城』も、ご存じのように未完結であり、実際にはカフカによって確定的な長編小説らしい体裁が整えられているわけでありません。だから、ブロート版と批判版とでは、例えば「章」に関して、異なった分け方や順番を見せています。つまり、一歩踏み込んでいえば、その分け方や順番は、ブロートの、また批判版の編集者マルコム・ペィスリーの解釈の結果だということですね。
第3の全集は、こうした編集者の解釈による手入れをなるべく排除しようと、例えばそれの『審判』の巻は、セクションごとにばらばらの束で遺されている草稿の形を反映して、ばらの冊子をひとつの函に収める形で出版されています。すなわち、小説が一冊の本にまとめられていない、固定的な直線的順番がつけられていないわけで、それらのばらの冊子をどの順番で読むかは、読者の判断に委ねられているのです。また、それは、手書きの文字をきれいに活字化したテクストを付けるのさえ編集者による介入だという判断で、原稿を写真で出した「写真版」です。ほかにも大事な相違点はいくつかあるのですが、とりあえずここではこのあたりにさせてください。この説明で、ご質問の「違い」というのがご想像いただけましたでしょうか。
ところで、ご質問のなかで全集を「全てを網羅している」ものと捉えていらっしゃるところが、気になったのですが・・・。というのも、「全て」というのは、おそろしく難しい言葉だからです。全てを網羅するというのは、現実には不可能であって、すでに、どの範囲を全てとみなすかという点で、編集者の解釈が入ります。
これは、フーコーもすでに「作品」概念とからめて指摘していることであって、ニーチェの作品を出版するというとき、ニーチェの手帳のなかの住所の記載や待ち合わせのメモは作品かという問題です。ここでもう一点加えさせていただけば、「批判版カフカ全集」と私が訳しているドイツ語は、じつは、
Kritische Kafka-Ausgabeというもので、そこには「全」の文字はありません。にもかかわらず、それに「全集」という言葉を使っているのは、それが表そうとする意味を日本語として成立させようとするとそうせざるをえないからです。それは、正直、私としては、苦しい、忸怩たるところです。翻訳とは、本当に難しい、決断力のいる仕事だと毎日痛感しています。
ちなみに、本書『グーテンベルクからグーグルへ』でそのありようを問題にしている学術編集版とは、日本語の全集とイコールではありません。どういえばいいのでしょう・・・言葉の位相がずれているのです。例えば、あるひとつの作品しか収めていない全集というのはありえませんが、あるひとつの作品の学術編集版というのはありえます。その意味では全集より小さい概念に見えるのですが、しかし、そのひとつの作品について、これまで歴史的に存在した諸版をできるかぎり網羅的に収めましょうという意味では、はるかに大きな概念です。本書で問題となっているのは、日本語でいうところの全集のデジタル化ではない、という点は、ここで強調させていただいたほうがいいかもしれません。
【質問2】
文学作品に限らず、「編集」によってテキストは読み手に与える影響が違ってくるわけですね。先生はテキストのデジタル化について危惧をお持ちですが、訳者あとがきには大きな可能性についても触れられています。
http://www.keio-up.co.jp/kup/sp/gtog/
カフカ研究はコンピューターとの付き合いを要求している。「調べれば調べるほど、カフカの遺稿からは、活字テキストとしての再現は到底不可能な、途方もない(自由)が読み取れた」からですが、カフカの「途方もない(自由)」について、カフカを読んだことのない人にもわかるようにご説明いただけますか?
【回答2】
まず、ご質問の後半の部分からお答えすると、これは質問1で最初に挙げたポイントとつながると思います。ようするに、カフカはなぜ自作を公表しなかったのか?
おそらく、それは、「完成」させられなかったからではないでしょうか。
ここでいう完成とは、社会的な意味での完成です。書籍として出そうと思うと、いろんなレベルで「整える」ことが必要なのはおわかりいただけると思います。ところが、カフカはそこができなかった・・・。例えば、先にふれた『審判』のばらばらな草稿の形態は、執筆自体各セクションごとにばらばらにおこなわれたことを示唆しています。それらを、社会に送りだそうとすると、本にするために、順番をつけてつないで、という作業をおこなわなければならないのですが、でもそれは、カフカ自身できなかったのではないか。
前に挙げた「狩人グラッフス」にしても、カフカ本人には、社会的にそれを「完成」と認知させる形に仕上げるのは、おそらく無理だったように思います。これはすでに拙著のカフカ論でいってしまっているのですが、それら、すなわちその「社会的」には未完成としてしか見えないカフカの書きものは、ある意味それはそれですでにおそろしいまでの完成形を示しているのではないかということです。
彼が書いていたのは、おそらく現実の形に収めるのがきわめて難しい何かだろうと思います。その彼独自の表現に向かうダイナミズムを、「自由」という言葉で表してしまっていいかどうか、じつはかなり迷ったのですが、論理の運びと紙数の都合から、何か一語でそこを乗り切らざるをえず、結局えいやっとその言葉を選んでしまったというのが、正直なところです。
ここでご質問の前半部分に戻れば、私が当初コンピュータに抱いていた期待というのは、紙の書籍には収まりきらなかったカフカのその途方もない表現を、それであれば、もしかしたら十全に再現し共有可能にしてくれるのかもしれないと思ったからです。
しかし、だんだんとわかってきたのは、デジタルメディアには紙メディアより自由な部分もあれば、ずっと制約の厳しい部分もあるということです。そもそも夢は夢というか・・・今から思えば私が再現したいと夢想していたことは、コンピュータがどうのというよりも、本来実現できないというか、原理的に現実への落とし込みを許容しえないものであったような気がします。
ただ、本書が問題にしている編集についていえば、デジタルメディアは、うまくいけば、その特性を有効に発揮するでしょうね。欧米の編集文献学で議論されている文学研究の基盤としてのエディションの作成は、本書で伝えられているとおり、おそらく、どんどんそちらに流れていくように思います。
【質問3】
先生のカフカに対する見方を教えていただきましたが、ならば先生がそうした編集をされればいいのに、どうして危機感をお持ちなのでしょうか?上記リンク先の特別寄稿にある資料の信頼性の問題と絡めて言えば、研究を進めていくうちに資料の信頼性を判断するのも研究者の仕事だと思いますし、読者もそうあるべきではないでしょうか。またそうした判断能力のある方が編集を行うことに何ら問題はないと思うのですが。
【回答3】
ようするに、編集における「公」と「私」の問題です。私も、じつは、「編集」をしているといえるかもしれません。というのも、すでに流通してるカフカの草稿の画像を使って、それを「あとがき」でふれたソフトウェアに載せて、いろいろテキストデータを関連させたり、順番を変えてみたりと自分の研究用にごくごく小規模の「編集」を試しているからです。しかし、それはあくまで、私が個人的に「私的」におこなっていることです。
ここはたぶん、先の質問2とつながりますね。社会的に「資料」と呼ばれるものを作るのは、明らかに「公的」な編集です。そして、それは、けっして書きたいように書けばいい、編集したいようにすればいいというのではすまない、別次元の作業を伴います。
カフカが自分の「書くこと」と社会性との間で苦しんだように、正直、私も、その「公的」な領域に踏み出すのは、とてつもなく難しく、とうてい自分にできる仕事とは思えません(なんか、こういうとカフカと自分を一緒に考えているみたいで、ものすごく不遜な発言に聞こえるかもしれませんが・・・どういえばいいのか、ようするに、私もそっちのタイプの人間だということです)。
また、それ以外に、もっとそれこそ「社会的」な事実として、それはできないといえるとも思います。最初にカフカの3種類の全集の話が出ましたが、最初の編集者ブロートも、批判版の編集主幹のペィスリーも、ようするにカフカの遺稿の管理者です(ペィスリーは、1960年代から遺稿の大半が保管されているオックスフォード大学の教授です)。第3の写真版の編集者は遺稿管理者ではないのですが、写真版に関しては、じつは、一時その出版社とオックスフォード大の間で遺稿の利用許可をめぐってもめたという経緯があります。このあたり、これ以上あまり軽々しくふれたくない部分なのですが、学術版編集というのは、やりたければできるという話でもないように思います。
ご質問の1でも申し上げたように、本書で問題となっている編集とはあくまで学術版の編集です。本書でシリングスバーグが主張しているナリッジサイトの必要性は、その「公的」な編集をめぐる理論的な考察から生じています。ここでもうひとつ大事な点を強調しておけば、学術版編集というのは、理論を必要とする概念だという点です。なぜなら、理論のないところでは、結局のところ、それは本当の意味での「公的」な活動にはなりえないからです。
■『グーテンベルクからグーグルへ』訳者インタビュー(下)■
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先月の続き。今回の質問は、回答をごらんになれば一目瞭然。訳者の明星先生を相当に困惑させたようである。実は、なんとなく、そうなるだろうなと思っていた。
明星先生は、正統派の研究者。こちらは、専門外の素人である。しかも自分が研究者に向かないタイプの人間であることは、自分が一番よく知っている。だからバッサリやられるだろうなと思っていたのだが、先生の優しさが伺えるインタビューとなった。しかし、それでもジタバタする朝日山は思うのである。たぶん、見ているところは同じだろうと。
質問6で、先生はこの本を読んで編集文献学をやる人が出てくることに疑問を持っているように書いておられる。しかし実際は一人でもいい、この分野を開拓していく日本の研究者に出てきて欲しいと思っておられるのではないか。それはひょっとしたら絶望的な願望かもしれない。しかし、絶望的な願望を持ついえば、こちらも同じ。
一冊でもよい本が売れて、本の世界が豊かに発展して欲しい。本が売れないといわれる時代、そんな絶望的な願望をいだいてメルマガを作っている私としては、そう思わないとメルマガなんかやってやってられんというのが本心だったりしますw
ということで、インタビューの続きです。
【質問4】
「ナレッジサイト」というキーワードが出てきました。ナレッジサイトとは、たとえばカフカならカフカに関する学術的な情報がすべて収集、整理されているホームページのことを差しますが、実際に構築するとなると大変な困難が伴います。作家自身が行った書き換えの検証から植字工の仕事ぶり、ドイツと米英の文化の違いから誤
読に至るまで、シリンスバーグはありとあ らゆる観点からあるべき サイトについて理論的な考察を行っています。
その道は日本の研究者にとって「矛盾に充ち満ちた、苦しい、徒労感の大きなものになる」と先生は予測されています。そうなる理由は、仕事の困難さもさることながら、編集文献学は「決して日本のものとはなりえない」からですね。文学も含む文化とは、本質的に独自のものなのに、学術研究が「一点(真実)という目的を目指す構築的な制度」であるがゆえに、独自性を捨て、世界標準に合わせざるを得なくなる。
しかし、私はそうなのかという疑問も捨てきれないでいます。たとえば、自動車を挙げてみると、自動車を作ったのは欧州で日本は何十年も遅れて後追いしていったわけです。ところがハイブリッドカーなど現在世界の自動車業界をリードしているのは、日本の自動車メーカーでしょう。世界標準は日本だといっていいと思います。欧米メーカーは、もちろん世界標準に合わせようともしていますが、彼らは独自性を失っているでしょうか。
シリンスバーグの主張を読んでいくと、確かにナレッジサイト作りは困難な仕事には違いない。しかし言っていることは学術的に至極全うなことで、言うなれば自動車の設計とか組み立て方などの基本について言っているだけのように思えるのです。そうした基本で後追いしつつも、欧米メーカーは彼らの文化を色濃く残した自動車を
今も作っ ています。そして日本車同様、世界中で売られています。
編集文献学は、今回先生が紹介されたのが日本でのスタートとなるでしょう。先生や私が生きているうちは無理かもしれませんが、将来日本が編集文献学の分野で世界標準になる。あるいは世界標準のルールを守りつつも独自文化を主張していくことは、自動車作りなどよりもはるかに難しいことなのでしょうか。言い換えると日本と欧米の間には、100年経っても追いつけないような格差が、すでにあるのでしょうか。
【回答4】
ご質問にお答えする前に・・・すみません、ひとつ確認しておきたいことがあります。というのは、先月のご質問もすべてそうだったのですが、今回のこのご質問も、本書の本文についてのものというよりも、むしろ、私の拙い「あとがき」をめぐってですよね。(ちなみに、本文のほうでは、「カフカ」という語は一度もでてきません。)
なぜ、そうなのか・・・私としては、むしろ、このことのほうをまず考えてしまいます。もちろん、これらの質問が、「訳者」に宛てているという形式から、私への配慮として、「あとがき」を取り上げてくださっているという点は、理解しています。また、このようにあの「あとがき」を重視してくれていること自体を、評価の表れと受け止めて、感謝しております。
ただ・・・なんというか、私が先月来、このようにメールでのインタービューを受けて、期せずして確認できているのは、なるほど、やはり構造的な問題だったのか、という点なのです。おそらく、本書の著者が本文で提起している問題を理解したとしても、いや、理解すればするほど、日本で読む私たちには、「で、どうすればいいのか」「私たちは何をするべきか」という別次元の問題がのこされているといっていいのでしょう。
だから、その問題の存在を指摘した私の「あとがき」に、大変ありがたいことに、このように着目してくださる・・・。ただ、注意していただきたいのは、それはたしかに、世界における標準に関わる問題であるかもしれませんが、ヘゲモニーをどこが握るかといったこととはレベルが異なっているように思います。これは、私の書き方が誤解を呼んだのかもしれませんね。どこの国がどうこうといった話ではないのです。(それから、こういうと語弊があるかもしれませんが、はたして世界標準になることは「善」と言い切れるのでしょうか。)
「格差」という点に言及するとしたら、私はむしろ、国単位というよりも、言語のほうの問題であるように思います。つまり、「英語」の圧倒的な強さです。それから、自動車の事例との比較は、この場合、あまり適切ではないように思えるのですが・・・説明するのはとても大変なので、そこに立ち入るのは控えます。
もうひとつ最後に付け加えておけば、ご質問のなかで、シリングスバーグの主張を、「至極全う」とおっしゃってくださっているのですが・・・でも、はたして、私たちの立場で、本当にそう言い切れるのでしょうか。はたして、その「至極全う」で「基本」であるはずのことは、これまで日本でおこなわれてきたのでしょうか。もし、いまの問いの答えが否となるのであれば、それは何を意味するのか。誤解しないでほしいのですが、これはけっして批判を意図しているものではありません。申しあげたいのは、それほどこの問題を扱うのは難しいということ、細心の注意が必要だということです。
【質問5】
この本の言わんとするところは、本の帯にもあるように、文学テキストのデジタル化は文学研究、ひいては人文学研究の制度自体を根本から変えるだろうとすることにあるのは疑いないところだと思います。そうした時代に生きる人文学研究者は、これまでの研究者には必要なかった能力を求められるようになると思います。どんな能力が必要となるでしょうか。
【回答5】
これも、ものすごく難しい問題です。本の帯には、たしかに「制度」に「揺さぶりをかける」とありますね・・・。しかし、はたして、揺さぶられた結果、本当に「変わる」のでしょうか。本書は、けっしてその変化の姿を具体的には描いていません。たくさんの予言は散りばめられていますが、結局、思考の枠組み自体は、現在の制度のなかにとどまっているように思います。
いったいどう変わっていくのか。私自身、これは模索中であり、これからさまざま形で考察や実践を繰り返すことになるだろうと思っています。だから、「これまでの研究者には必要なかった能力」とおっしゃられても、正直、答えに詰まってしまいます。こういうと驚かれるかもしれませんが、むしろ、私は、人文学を学ぶ者は、いつの時代も変わらず、人文学を学ぶ者らしい、誠実な真摯な探求心をもっていれば十分ではないか、いや、人文学とはそういう学問であってほしいと思っています。もしかしたら、これからの時代、もっともっとその真摯さが必要になって、私の直感では、人間という矛盾に満ちた存在を、寛容に忍耐強く理解し続けるその力だけが重要になっていくとすら思っています。
【質問6】
この本を読んで編集文献学をやろうとする人がいらっしゃると思い ます。そのような方にアドバイスをお願いします。
なんだか・・・今回は、本当に答えに窮する質問ばかりですね(笑)。はたして、そのような方が現実にいらっしゃるのか、私にはよくわかりません。いずれにせよ、これも「あとがき」で書いたことですが、この編集文献学という一種のメタ学問は、シニアな学者、いいかえれば実績を積んだ年長の研究者によって支えられるものであるように思います。
逆にいえば、むしろ、若い研究者や学生には、このようなテクストを取り巻くフレームを考えることよりも、もっとテクストのなかにどっぷりと入り込んで、「意味」と格闘してほしいとすら、思っています。つまり、旧来の伝統的な人文学の学問のなかで、しっかりと修行を積んで足腰を鍛えてから、こういった「資料」とか「方法」とかに関わる境界領域的な学問に進むほうが、実りある豊かな成果につながるのではないか、というのが、実感として思うことです。あっ、これじゃ、あんまり、というかぜんぜん宣伝になってませんね(笑)
■『グーテンベルクからグーグルへ』訳者による特別寄稿■明星 聖子(埼玉大学教養学部准教授)
これは悲しい予言の書です。これからの文学研究は、デジタルの「本」に基づかざるをえない。著者シリングスバーグは明らかにそう語っています。
いや、そんなことはありえない。仮想空間に浮かぶ幻影を相手にして、研究などできるはずがない。大半の方は、おそらくとっさにそう反論したくなることでしょう。
でも、本当にそう言い切れるのでしょうか。例えば、目の前のディスプレイに、ある作家の小説の草稿画像が表示されているとします。同時に、机の上には、活字の本になったその小説の一頁が開かれている。では、研究者が研究のために活用するのは、いったいどちらでしょう。
「オリジナルにあたれ」という言葉を、研究の場でよく耳にします。しかし、このオリジナルとは何でしょうか。例えば、いまの場合、よりオリジナルに近いのはどちらでしょう。編集者が介在して、活字コード化されて整えられた「作品」の載る実物の本でしょうか。それとも、作家の「書く」行為の生々しい痕跡である手書き草稿をそのまま再現したディスプレイ上の画像でしょうか。
もちろん、いや「本物」のオリジナルと呼んでいいのは、そのどちらでもない、この世に唯一無二のモノとして存在する草稿の紙そのものだと主張することもできるでしょう。
しかし、そこまでいってしまったとたん、文学研究という制度は一気に難しいところに押し込められてしまいます。はたして、そこまでの「本物」を対象にすることが、文学研究だったのでしょうか。
資料の問題というのは、お気づきのとおり、学術研究の制度の根幹に関わります。どの資料であれば信頼がおけるのかという問題は、資料に基づいて論を組み立てていく研究そのものの信頼性に直結しているのです。そして、デジタルの時代における資料の信頼性の問題は、文学研究のみならず、いわゆる人文学の広い領域にあてはまります。
少なくとも、私が属する文学研究の分野では、管見ではありますが、この種の議論はこれまであまり表立ってはおこなわれてきませんでした。いうなれば、そ
のあたりの了解は、あうんの呼吸で成り立ってきていました。
あらゆる書物のデジタル化が進むなか、いやおうなく白日の下にさらされていくのは、おそらくその部分です。そして、それは情報テクノロジーの急速な発展が、いつしか無限ともいえる量の画像データを、生産、蓄積、流通可能にしたことと深く関係しています。たしかに、ディスプレイ上に浮かぶ画像は、リアルなモノとしての存在ではありませんが、しかし、リアルなモノとして存在する何かをきわめて忠実に再現しているものだとはいえるのです。
(最近大きな話題となっているグーグル・ブックサーチに関しても、それが画像データを提供しているという点はもっと着目されてしかるべきように思います。)
この文章の最初で、私は「悲しい」という形容詞を使いました。これは、あくまで私の主観的な感慨を漏らした言葉であって、本書はけっして未来を悲観的に描いているものではありません。むしろ、非常に複雑で困難な課題に果敢に挑戦して、なんとか希望に満ちた明るい未来へ到達しようと呼びかけるものです。
それが実現可能であるかどうかはともかくとして、私たちが、この複雑で困難な問題と、早晩直面しなければならないことは確実でしょう。それがいかに困難で複雑なものであるのか。いずれの取り組みも、まずはその認識から、スタートしていくべきように思います。本書はそれを十全に伝えています。