評者◆高山宏
種村季弘の全文業の着地点――戦間期スイスを舞台にヨーロッパ近代文明の功罪が総決算される
老魔法使い――種村季弘遺稿翻訳集
フリードリヒ・グラウザー 著 種村季弘 訳
No.2883 ・ 2008年08月30日
文字通りミレニアム・イヤー(一九九九)に世界の終末というテーマで種村季弘氏と対談した。種村氏とは異例の回数、商業誌上で対談したが、結局最後の対面ということにもなって大変印象深い対談だったので、ぼくの雑文集『エクスタシー』(松柏社)に全文再録してみた。丁度対談の直前に二十世紀前半スイスの作家フリードリッヒ・グラウザーの『狂気の王国』の種村訳(作品社)を恵贈いただいていて、その御礼を言うと、早速高速なチャート化にしびれさせられる種村節がよどみなく展開されて、やっとスイスはアスコーナの「真理の山」コロニー周辺のことが分かり始めて悦に入っていたぼくは、パースペクティヴがさらに一挙に広がっていくのにくらくらさせられてしまった。グローバルでありつつ驚くばかりローカルというこれほど巨細自在な文化史家を永久に喪ってしまったことの衝撃と寂しさが改めて痛切だ。
対談はこんな具合である。
高山 ……そう言えば『狂気の王国』が一九二〇‐三〇年代位の推理小説になっている。
種村 あの頃は探偵小説でもスツイチャとかブレーズ・サンドラールとか、桁はずれに面白い奴が出ているんだよね。それが戦争があったために、そこの所だけ紹介されていないんだね、フランス語でもドイツ語でも。スツイチャはプラハですか。それからウィーンのゼルナーとか、ダダイスト崩れに面白い奴がいっぱいいるんです。イタリアにもエヴォラとかいるよね。それがなぜか落ちているんだけど、今読むと非常に面白いよね。つまりキャバレー詩人なんだよ、みんな。パフォーマンスでやるから、エクリチュールだけでやっている人と全然違う。
高山 そこいら辺を読むと、本当に面白いのはやっぱり世紀が明けてからじゃないかと思えるんですよね。『ヴォルプスヴェーデふたたび』も今度読めるようになりましたね(『種村季弘のネオ・ラビリントス』第五巻)。あれも二十世紀の始めのことでしょう。「終わり」のことでは決してない。アスコーナとか、文化コロニーがいろいろ連動して「始め」が「始」まる。
種村 『ヴォルプスヴェーデ』の補遺でアスコーナのコロニーのことにふれているんですけど、そういえば『狂気の王国』のグラウザーという作家もアスコーナ体験というのが非常に重要で、あそこからいろんな人々が出てくる。シュルレアリスム画家のエルツェなんかもあそこにいたし。パリよりもずっと面白いところじゃないかな。
要するに稀にみる文化史上の特異点としての二十世紀前半スイスが無茶苦茶面白いというのだ。大体の所はやって、自分自身もう「終り」の境位なんだが(笑)、あと「余生」はそのグラウザーをぽつぽつ翻訳して送れればいいかな、と種村氏は仰有った。最後と言えば生前頂いた最後の私信にも、「少し目がよくなったので、そろそろプレ・ダダのモルゲンシュテルンからグラウザーにいたる、キャバレー文学的ポエジーをおさらいしてみようと思っています」とあって(『エクスタシー』収録)、あの大種村が最後に選んだ知と文の伴走者、このフリードリッヒ・グラウザーとは何者、という興味がもう抑えられない。そして着実に送り届けられてきた種村訳のグラウザー作品でその渇は確実に癒されてもきた。
そして今回、「遺稿翻訳集」がグラウザー作品集の形をとったのも、まことにむべなるかなである。ベルン市警の刑事ヤーコプ・シュトゥーダーが登場したり、しなかったりといういわゆる探偵もの短篇十二篇と、シュトゥーダーものの傑作長篇『シュルンプ・エルヴィンの殺人事件』と『シナ人』を収録。シュトゥーダーが警部になるのが一九一八年。要するに戦間期スイスを舞台にヨーロッパ近代文明の功罪が総決算される。最大傑作『シュリンプ・エルヴィンの殺人事件』は「あの金融大恐慌」を背景にした保険金詐欺の企ての錯綜した顛末を追うが、カネと欲のからみ合いを解きほぐす作業を口実に、実は平和国家の象徴とされてきたスイスの、人にも共同体にもじっと沈潜した「内面がうつろ」なあり方の分析が進んでいく。ここでは名探偵自身、幻視と悪夢に悩まされる典型的なスイス人で、本人自身「シャーロック・ホームズ風の演繹的方法」放棄を宣言する。町がまるで舞台のピクチャレスクな書割りにしか見えず、人々の応接がさながらパントマイムにしか感じられない世界が「探偵小説」の約束事を歪め、そして深める。二十世紀探偵小説の反探偵小説化の出発点を本作品集に認めることができる。特に短篇「世界没落」は探偵小説と精神分析が交錯するその呼吸を、いっそアナール派史家の手付きでえぐりだした絶品であろう。
「うつろ」と知れている現象の表面を飽かず描きこむ濃密な描写言語を持ち、独墺文化圏独特な「うつろ」の政治史・文化史をたれよりも深く知る種村季弘の全文業の着地点としてまことに相応しい作品集と感じられる。
遺稿整理ということで訳者解題の類はあきらめようということなのだが、初出年など最少限度の作品データくらいは欲しいと思った。
(国際日本学)
対談はこんな具合である。
高山 ……そう言えば『狂気の王国』が一九二〇‐三〇年代位の推理小説になっている。
種村 あの頃は探偵小説でもスツイチャとかブレーズ・サンドラールとか、桁はずれに面白い奴が出ているんだよね。それが戦争があったために、そこの所だけ紹介されていないんだね、フランス語でもドイツ語でも。スツイチャはプラハですか。それからウィーンのゼルナーとか、ダダイスト崩れに面白い奴がいっぱいいるんです。イタリアにもエヴォラとかいるよね。それがなぜか落ちているんだけど、今読むと非常に面白いよね。つまりキャバレー詩人なんだよ、みんな。パフォーマンスでやるから、エクリチュールだけでやっている人と全然違う。
高山 そこいら辺を読むと、本当に面白いのはやっぱり世紀が明けてからじゃないかと思えるんですよね。『ヴォルプスヴェーデふたたび』も今度読めるようになりましたね(『種村季弘のネオ・ラビリントス』第五巻)。あれも二十世紀の始めのことでしょう。「終わり」のことでは決してない。アスコーナとか、文化コロニーがいろいろ連動して「始め」が「始」まる。
種村 『ヴォルプスヴェーデ』の補遺でアスコーナのコロニーのことにふれているんですけど、そういえば『狂気の王国』のグラウザーという作家もアスコーナ体験というのが非常に重要で、あそこからいろんな人々が出てくる。シュルレアリスム画家のエルツェなんかもあそこにいたし。パリよりもずっと面白いところじゃないかな。
要するに稀にみる文化史上の特異点としての二十世紀前半スイスが無茶苦茶面白いというのだ。大体の所はやって、自分自身もう「終り」の境位なんだが(笑)、あと「余生」はそのグラウザーをぽつぽつ翻訳して送れればいいかな、と種村氏は仰有った。最後と言えば生前頂いた最後の私信にも、「少し目がよくなったので、そろそろプレ・ダダのモルゲンシュテルンからグラウザーにいたる、キャバレー文学的ポエジーをおさらいしてみようと思っています」とあって(『エクスタシー』収録)、あの大種村が最後に選んだ知と文の伴走者、このフリードリッヒ・グラウザーとは何者、という興味がもう抑えられない。そして着実に送り届けられてきた種村訳のグラウザー作品でその渇は確実に癒されてもきた。
そして今回、「遺稿翻訳集」がグラウザー作品集の形をとったのも、まことにむべなるかなである。ベルン市警の刑事ヤーコプ・シュトゥーダーが登場したり、しなかったりといういわゆる探偵もの短篇十二篇と、シュトゥーダーものの傑作長篇『シュルンプ・エルヴィンの殺人事件』と『シナ人』を収録。シュトゥーダーが警部になるのが一九一八年。要するに戦間期スイスを舞台にヨーロッパ近代文明の功罪が総決算される。最大傑作『シュリンプ・エルヴィンの殺人事件』は「あの金融大恐慌」を背景にした保険金詐欺の企ての錯綜した顛末を追うが、カネと欲のからみ合いを解きほぐす作業を口実に、実は平和国家の象徴とされてきたスイスの、人にも共同体にもじっと沈潜した「内面がうつろ」なあり方の分析が進んでいく。ここでは名探偵自身、幻視と悪夢に悩まされる典型的なスイス人で、本人自身「シャーロック・ホームズ風の演繹的方法」放棄を宣言する。町がまるで舞台のピクチャレスクな書割りにしか見えず、人々の応接がさながらパントマイムにしか感じられない世界が「探偵小説」の約束事を歪め、そして深める。二十世紀探偵小説の反探偵小説化の出発点を本作品集に認めることができる。特に短篇「世界没落」は探偵小説と精神分析が交錯するその呼吸を、いっそアナール派史家の手付きでえぐりだした絶品であろう。
「うつろ」と知れている現象の表面を飽かず描きこむ濃密な描写言語を持ち、独墺文化圏独特な「うつろ」の政治史・文化史をたれよりも深く知る種村季弘の全文業の着地点としてまことに相応しい作品集と感じられる。
遺稿整理ということで訳者解題の類はあきらめようということなのだが、初出年など最少限度の作品データくらいは欲しいと思った。
(国際日本学)