白雪姫たちの世紀末 闇の女王をめぐるヨーロッパ19世紀末の文化論
郁文堂
原研二著
出版年月日 2010/08/01
ISBN 9784261073034
判型・ページ数 4-6・216ページ
定価 本体1,800円+税
■内容紹介
「白雪姫」をキーワードに、19世紀後半から20世紀はじめにかけてのヨーロッパの文学と文化、特にオーストリアを中心とする文化(文学・思想・絵画・音楽・建築など)を読み解きます。
各章に読書案内・解説付。写真・図版多数。
■目次
はじめに
1黒い群れの女王
コラム:受容美学
2 白雪姫と王妃
(1)王の不在
(2)本当は怖くないグリム童話
コラム:メルヒェンの構造分析と様式分析
3 白いオフィーリア
(1)ランボーとオフィーリア
(2)ミレイのオフィーリア
コラム:だまし絵
コラム:エリザベス・シッダル
(3)漱石とオフィーリア
コラム:ランスロットと、シャーロットの姫
(4)黒いオフィーリア—オフィーリアの歴史
コラム:セーヌ川の身元不明の女
4 ユーディットの微笑み
コラム:ルル
5 裏返しのピエタ
(1)ココシュカの『ピエタ』
(2)惨殺された人形 ココシュカとアルマ・マーラー・ヴェルフェル
6 ファッションの変貌
7 ウィーンのファッサーデ
8 王妃の物語 皇妃エリーザベトとウィーンの音楽
(1)エリーザベト・フォン・エスターライヒ
コラム:シシーの映画
(2)フランツ・ヨーゼフとオペレッタ
コラム:フランツ・ヨーゼフと文学
コラム:ルートヴィヒ・アンツェングルーバーとその妻
(3)アルノルト・シェーンベルクと欠けている言葉
コラム:オペラとオペレッタ
9 女性性との思想的対決
(1)解体の告知者 エルンスト・マッハ
(2)マッハ批判 フッサール
(3)女性性の克服 オットー・ヴァイニンガー
(4) ヒステリー女性への関心 ジークムント・フロイト
コラム:父親殺し
10 闇の女王を越えて
(1)闇の女王の正体
(2)闇の女王のかなた
コラム: 読書案内
あとがき
■原 研二
1951年3月8日宮城県仙台市に生まれる。1974年東北大学文学部卒業、同大学大学院に進学。1977年東北大学文学部ドイツ文学研究室助手。
1978年筑波大学現代語・現代文化学系助手。1978年‐80年ボン大学、ザールラント大学留学。1981年筑波大学現代語・現代文化学系講師。
1986年東北大学文学部ドイツ文学専攻分野助教授。1995年東北大学文学部ドイツ文学専攻分野教授。1997年東北大学大学院文学研究科ドイツ文学専攻分野教授(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
■評・野家啓一(科学哲学者)
誰もが知るグリム童話の「白雪姫」の物語を縦糸に、女性像の変容という観点からヨーロッパ世紀末の文化状況を読み解いた秀作である。
ムージル研究者である著者は、彼の作品に現れる「黒い群れの女王」という表現に注目する。そして、その正体を暴くための手がかりを正負両面で「女性的なもの」の象徴である白雪姫に求める。
白雪姫の残像は、『ハムレット』のオフィーリアを媒介にしてランボーの詩やミレイの絵画、さらに漱石の『草枕』にまで辿(たど)られる。こうして「文学的なテキストや絵画が孤立したものではなく、ある時代の思潮のなかにある」ことが浮き彫りにされる。
後半、舞台は世紀末ウィーンに移り、当時の建築や音楽を背景に、著者はクリムトの「ユーディット」像に「裏返しにされた白雪姫」を、また皇妃エリーザベトに「時代の白雪姫の一人」を見る。そこから「闇の女王」の正体は秩序の解体と解放への予兆であることが明らかにされる。
文学研究の面白さと奥深さを存分に伝えてくれる本書は、一昨年惜しまれつつ早世した気鋭の独文学者の遺著である。(郁文堂、1800円)
(2010年11月8日 読売新聞)
information about books, library technology and so on.
2010年11月4日木曜日
2010年3月29日月曜日
『イメージの修辞学――ことばと形象の交叉』
評者◆高山 宏 新世紀のレトリケーの誕生――この半世紀の批評ブームの本質に関心ある人々は必読! イメージの修辞学――ことばと形象の交叉 西村清和 No.2959 ・ 2010年03月27日 ![]() ![]() タイトルに謳う修辞学は比喩ではない。本邦に限らず昨今は西欧でもそこの素養が欠け落ちたために人文科学が電子情報に翻弄されて右往左往している文字通りの修辞学のことだ。皮肉なことに電子メディア論の王たるマクルーハンは実は古今の修辞学の巨匠たることをぼくらは彼の『グーテンベルグの銀河系』や『メディアの法則』で改めて肝に銘ずべきだ。 西村氏が修辞学の伝統を今日に活かそうとして繰りだすのはレセプション理論(受容美学)とナラトロジー(物語論)である。現代思想といえばフランスという形で覆われてきた二十世紀後半、ドイツ解釈学が更にアメリカに渡って受容美学をうみ、米独で読者理論をうんだ動きは、哲学プラス修辞学ということで日本人ファンの一番苦手なところと見えて紹介以上の定着をみない。ましてや学界で一般的なイメージ軽視ということも手伝って美術・映像文化史の方で受容理論はなかなか本格化してこなかった。 絵 画の受容美学ということで西村氏が一番依拠する同時代美学者ヴォルフガング・ケンプは、一九七〇年代以降の文学理論が受容美学、読者論によって経験しえたパラダイム変換が美術史学の関与なしに生じた事態を猛省すべきだと言っているのだそうだ。ことばの意味はそれを使い、受けとる人間の存在を俟ってはじめて成立する制度だというところに立ってフーコー文化史もポストモダン批評も出発した。ほぼ一九六〇年代のこと。しかるに映画論の一部が、見る人間、受容者を俟って成立する意味論をとりあげたくらいで、広義の美術史・イメージ研究はこれを信じられないくらい怠ってきた、と西村氏は一喝する。そこに気付いてスヴェトラーナ・アルパースが『描写の芸術』を発表して、いわゆる「新美術史」学が出発したのが一九八三年。アルパース、バクサンドール、ノーマン・ブライソンら「新美術史」の気鋭たちの仕事がこれほど所を得てバランスよく紹介されたのはこれが初めてで、今なおマイケル・フリードの名著『没入と劇場』(一九八〇)もブライソンの『ことばとイメージ』(八一)も未紹介未翻訳の本邦学界の怠慢には呆れはてる。 そもそも「イメージ」とは何なのかから徹底的に(認知心理学まで含めて)語り起こし、その「ことば」との重なりと違いを述べ、パラゴーネ(画文優劣論)、エクフラシス(画文共鳴論)など、「ことばとイメージ」を考える伝統的テーマを残らず拾う原理論と、ことばのアートたる小説について受容理論的に得られた視点、叙法、人称、描写の問題を映画について見る。これが半分。残る半分がいわゆる美術史について同じアプローチができるか検証する実験の紙幅である。中世のミニアチュールや聖像画からルネサンスを経て現代にいたる西村流受容美術史はそれだけでも壮観で、昔ジョン・バージャーの『イメージ』邦訳に伊藤俊治氏が付録(?)付けた厖大な伊藤流美術史の一大パノラマを思いだした。そして我々日本人が西欧流「ことばとイメージ」感覚と出会った場としての明治年間の小説と挿絵の関係論が資料的にも非常に貴重である。 受容理論に限らずこの半世紀の批評ブームの本質に関心ある人々は必読しなければならない。知っている批評家がほとんど全部出てくる賑やかさも楽しいが、彼らにも「混同」や「あやまり」がいかに多いかという丁寧な指摘が次々に繰り返されるのを目のあたりに、注ぎこまれた十年の威力と、待望の新世紀のレトリケーの誕生を心からことほぐものである。 (国際日本学) |
ラベル:
本の紹介
『実体への旅――1760年‐1840年における美術、科学、自然と絵入り旅行記』
評者◆柏木博
一八世紀視覚革命をダイナミックに描き出す
実体への旅――1760年‐1840年における美術、科学、自然と絵入り旅行記
バーバラ・M・スタフォード著 高山宏訳
No.2898 ・ 2008年12月20日


いつもながらスタフォードの博覧博読を背景にした記述には、目眩を覚える。また、この間、スタフォードの著書を翻訳し続けてきた高山宏氏の知の強度と深度にもただただ敬服してしまう。かつて、ヴァルター・ベンヤミンが、翻訳とは、「ひとつの器のかけらを組み合わせる」作業であり、「愛をもって細部に至るまで、原作のもっている思考する仕方を己の言語のなかに形成」することなのだと述べているが、高山氏の翻訳は、ベンヤミンのその指摘を想起させる。
本書が主題とする一八世紀、イギリスでは、ウイリアム・ギルピンがピクチャレスクな風景を求めて、人々をつれだててツアーをたびたび行っていたことはよく知られている。「絵画のような風景を求める」ピクチャレスク美学による風景への旅は、それまでの自然を感覚的に捉える、あるいはイリュージョンに対応させる眼差しから、外界に実在を求めようとする眼差しへの転換点にもなった。それは、旅へと人々を誘いはしたが、その眼差しへの反発もまた同時に引き起こし、自然現象をそのまま捉えることへの関心が広がっていったからだ。してみれば、ピクチャレスク美学による旅は、その限界とともに、次なる実体への旅を用意していたのだともいえるだろう。スタフォードは、知の連続と断層を丹念に読み込んでいく。
一八世紀の眼差しの変容は、絵画や作庭にとどまらず、さまざまな領域にみられるものとなっていた。たとえば、リンネやビュフォンあるいは彼らの後継者による博物学(ナチュラル・ヒストリー)の研究は、自然の実体へと向かおうとしていた。それは、動植物あるいは鉱物などを探求するだけではなく、場所のドキュメンテーションと結びつき、自然を求める旅行を生み出していく。
そして、ビーグル号でのダーウィンの旅行、あるいはピーター・クックの旅行はもちろん、多くの「博物誌」「旅行記」が出現する。命がけの旅行や探検ではあるけれど、にもかかわらず、うつろう実体としての自然現象を捉えることへの欲望のほうがはるかに増していた。その結果、自然界の生物だけではなく、ヒマラヤやチベットあるいは砂漠、人間の手が入らなかった自然が生み出した暗い洞穴など無数の風景が発見されていく。そしてそれを記述する文書やイラストレーションも、できるだけ実体にせまろうとする。
とはいえ、面白いのは、かつての幻想的な風景画によって描かれていた、目に見えないものを実体がないとして、それを描くことに対する批判は、しかし同時に、ニュートンの言説によって、すぐに覆されてしまう。磁気やガスや空気といったものの実体が自然現象を生み出していることがたちまち知られるからだ。もちろん、それは気象学などへとリンクしていく。ともあれ、実体として可触できないものを表象することも同時に追求されることになる。
こうした眼差しの変化は、個々の現象として捉えることで、その向こう側に存在する本質あるいは実体へと到達するのではないかという希望に支えられている。自然の観相学である。物象としての顔からどれほどのことが解読できるのかということだ。
この自然探求の作業は、視覚(知覚)をとおして得られた情報をいかに体系化し秩序化(構造化)することができるのかということが、観察者に投げ返されることになる。したがって、それは近代的主体の認識論あるいは存在論に結びつく。つまり、対象としての自然現象のうつろいと同時に、それを構造化しようとする主体の知覚、精神の構造化が問題となってくる。
スタフォードは、一八世紀から一九世紀に引き起こされた視覚革命の連鎖を、このように歴史的つながりと共時的つながりの中で、ダイナミックに描いていく。神学的な真実ではなくうつろいやすい現象の中に実体を求めようとしはじめた近代の眼差しの出現の場面を、多様かつ膨大な資料体を駆使して浮かび上がらせる凄みをもった作品である。
一八世紀の視覚の変容に関しては、すでにミシェル・フーコーの『臨床医学の誕生』において指摘、分析が行われているが、スタフォードはもちろん、フーコーの議論もふまえながら、さらに具体的な視覚表現から自然誌や旅行記の中に、その事態を解読し、フーコーのいう断層だけではなく、劣性遺伝的連続性にも目をむけている。
余談ではあるが、資料体として引用されたフンボルトのテクストの中で、メキシコの「玄武岩」についてふれられている場面で、ふと、志賀重昂の『日本風景論』を想い起こしてしまった。「蓋し玄武岩たる純然たる火山の噴出物、其の初め溶岩の流液は火口より噴出せられ、ひとたび出でて空気の冷却なるに触れ、……表面に亀裂を生じ、六角体を化成す」。一九世紀末に書かれたこのテクストの記述もまた、スタフォードがいうところの実体への旅を背景にしており、日本においての新たな旅行を準備した。
このような記述方法もふくめて、眼差しの変化は描写の方法など「方法論」の領域に確認しうるとスタフォードは述べている。
(デザイン評論家)
ラベル:
本の紹介
『老魔法使い――種村季弘遺稿翻訳集』書評
評者◆高山宏
種村季弘の全文業の着地点――戦間期スイスを舞台にヨーロッパ近代文明の功罪が総決算される
老魔法使い――種村季弘遺稿翻訳集
フリードリヒ・グラウザー 著 種村季弘 訳
No.2883 ・ 2008年08月30日

文字通りミレニアム・イヤー(一九九九)に世界の終末というテーマで種村季弘氏と対談した。種村氏とは異例の回数、商業誌上で対談したが、結局最後の対面ということにもなって大変印象深い対談だったので、ぼくの雑文集『エクスタシー』(松柏社)に全文再録してみた。丁度対談の直前に二十世紀前半スイスの作家フリードリッヒ・グラウザーの『狂気の王国』の種村訳(作品社)を恵贈いただいていて、その御礼を言うと、早速高速なチャート化にしびれさせられる種村節がよどみなく展開されて、やっとスイスはアスコーナの「真理の山」コロニー周辺のことが分かり始めて悦に入っていたぼくは、パースペクティヴがさらに一挙に広がっていくのにくらくらさせられてしまった。グローバルでありつつ驚くばかりローカルというこれほど巨細自在な文化史家を永久に喪ってしまったことの衝撃と寂しさが改めて痛切だ。
対談はこんな具合である。
高山 ……そう言えば『狂気の王国』が一九二〇‐三〇年代位の推理小説になっている。
種村 あの頃は探偵小説でもスツイチャとかブレーズ・サンドラールとか、桁はずれに面白い奴が出ているんだよね。それが戦争があったために、そこの所だけ紹介されていないんだね、フランス語でもドイツ語でも。スツイチャはプラハですか。それからウィーンのゼルナーとか、ダダイスト崩れに面白い奴がいっぱいいるんです。イタリアにもエヴォラとかいるよね。それがなぜか落ちているんだけど、今読むと非常に面白いよね。つまりキャバレー詩人なんだよ、みんな。パフォーマンスでやるから、エクリチュールだけでやっている人と全然違う。
高山 そこいら辺を読むと、本当に面白いのはやっぱり世紀が明けてからじゃないかと思えるんですよね。『ヴォルプスヴェーデふたたび』も今度読めるようになりましたね(『種村季弘のネオ・ラビリントス』第五巻)。あれも二十世紀の始めのことでしょう。「終わり」のことでは決してない。アスコーナとか、文化コロニーがいろいろ連動して「始め」が「始」まる。
種村 『ヴォルプスヴェーデ』の補遺でアスコーナのコロニーのことにふれているんですけど、そういえば『狂気の王国』のグラウザーという作家もアスコーナ体験というのが非常に重要で、あそこからいろんな人々が出てくる。シュルレアリスム画家のエルツェなんかもあそこにいたし。パリよりもずっと面白いところじゃないかな。
要するに稀にみる文化史上の特異点としての二十世紀前半スイスが無茶苦茶面白いというのだ。大体の所はやって、自分自身もう「終り」の境位なんだが(笑)、あと「余生」はそのグラウザーをぽつぽつ翻訳して送れればいいかな、と種村氏は仰有った。最後と言えば生前頂いた最後の私信にも、「少し目がよくなったので、そろそろプレ・ダダのモルゲンシュテルンからグラウザーにいたる、キャバレー文学的ポエジーをおさらいしてみようと思っています」とあって(『エクスタシー』収録)、あの大種村が最後に選んだ知と文の伴走者、このフリードリッヒ・グラウザーとは何者、という興味がもう抑えられない。そして着実に送り届けられてきた種村訳のグラウザー作品でその渇は確実に癒されてもきた。
そして今回、「遺稿翻訳集」がグラウザー作品集の形をとったのも、まことにむべなるかなである。ベルン市警の刑事ヤーコプ・シュトゥーダーが登場したり、しなかったりといういわゆる探偵もの短篇十二篇と、シュトゥーダーものの傑作長篇『シュルンプ・エルヴィンの殺人事件』と『シナ人』を収録。シュトゥーダーが警部になるのが一九一八年。要するに戦間期スイスを舞台にヨーロッパ近代文明の功罪が総決算される。最大傑作『シュリンプ・エルヴィンの殺人事件』は「あの金融大恐慌」を背景にした保険金詐欺の企ての錯綜した顛末を追うが、カネと欲のからみ合いを解きほぐす作業を口実に、実は平和国家の象徴とされてきたスイスの、人にも共同体にもじっと沈潜した「内面がうつろ」なあり方の分析が進んでいく。ここでは名探偵自身、幻視と悪夢に悩まされる典型的なスイス人で、本人自身「シャーロック・ホームズ風の演繹的方法」放棄を宣言する。町がまるで舞台のピクチャレスクな書割りにしか見えず、人々の応接がさながらパントマイムにしか感じられない世界が「探偵小説」の約束事を歪め、そして深める。二十世紀探偵小説の反探偵小説化の出発点を本作品集に認めることができる。特に短篇「世界没落」は探偵小説と精神分析が交錯するその呼吸を、いっそアナール派史家の手付きでえぐりだした絶品であろう。
「うつろ」と知れている現象の表面を飽かず描きこむ濃密な描写言語を持ち、独墺文化圏独特な「うつろ」の政治史・文化史をたれよりも深く知る種村季弘の全文業の着地点としてまことに相応しい作品集と感じられる。
遺稿整理ということで訳者解題の類はあきらめようということなのだが、初出年など最少限度の作品データくらいは欲しいと思った。
(国際日本学)
対談はこんな具合である。
高山 ……そう言えば『狂気の王国』が一九二〇‐三〇年代位の推理小説になっている。
種村 あの頃は探偵小説でもスツイチャとかブレーズ・サンドラールとか、桁はずれに面白い奴が出ているんだよね。それが戦争があったために、そこの所だけ紹介されていないんだね、フランス語でもドイツ語でも。スツイチャはプラハですか。それからウィーンのゼルナーとか、ダダイスト崩れに面白い奴がいっぱいいるんです。イタリアにもエヴォラとかいるよね。それがなぜか落ちているんだけど、今読むと非常に面白いよね。つまりキャバレー詩人なんだよ、みんな。パフォーマンスでやるから、エクリチュールだけでやっている人と全然違う。
高山 そこいら辺を読むと、本当に面白いのはやっぱり世紀が明けてからじゃないかと思えるんですよね。『ヴォルプスヴェーデふたたび』も今度読めるようになりましたね(『種村季弘のネオ・ラビリントス』第五巻)。あれも二十世紀の始めのことでしょう。「終わり」のことでは決してない。アスコーナとか、文化コロニーがいろいろ連動して「始め」が「始」まる。
種村 『ヴォルプスヴェーデ』の補遺でアスコーナのコロニーのことにふれているんですけど、そういえば『狂気の王国』のグラウザーという作家もアスコーナ体験というのが非常に重要で、あそこからいろんな人々が出てくる。シュルレアリスム画家のエルツェなんかもあそこにいたし。パリよりもずっと面白いところじゃないかな。
要するに稀にみる文化史上の特異点としての二十世紀前半スイスが無茶苦茶面白いというのだ。大体の所はやって、自分自身もう「終り」の境位なんだが(笑)、あと「余生」はそのグラウザーをぽつぽつ翻訳して送れればいいかな、と種村氏は仰有った。最後と言えば生前頂いた最後の私信にも、「少し目がよくなったので、そろそろプレ・ダダのモルゲンシュテルンからグラウザーにいたる、キャバレー文学的ポエジーをおさらいしてみようと思っています」とあって(『エクスタシー』収録)、あの大種村が最後に選んだ知と文の伴走者、このフリードリッヒ・グラウザーとは何者、という興味がもう抑えられない。そして着実に送り届けられてきた種村訳のグラウザー作品でその渇は確実に癒されてもきた。
そして今回、「遺稿翻訳集」がグラウザー作品集の形をとったのも、まことにむべなるかなである。ベルン市警の刑事ヤーコプ・シュトゥーダーが登場したり、しなかったりといういわゆる探偵もの短篇十二篇と、シュトゥーダーものの傑作長篇『シュルンプ・エルヴィンの殺人事件』と『シナ人』を収録。シュトゥーダーが警部になるのが一九一八年。要するに戦間期スイスを舞台にヨーロッパ近代文明の功罪が総決算される。最大傑作『シュリンプ・エルヴィンの殺人事件』は「あの金融大恐慌」を背景にした保険金詐欺の企ての錯綜した顛末を追うが、カネと欲のからみ合いを解きほぐす作業を口実に、実は平和国家の象徴とされてきたスイスの、人にも共同体にもじっと沈潜した「内面がうつろ」なあり方の分析が進んでいく。ここでは名探偵自身、幻視と悪夢に悩まされる典型的なスイス人で、本人自身「シャーロック・ホームズ風の演繹的方法」放棄を宣言する。町がまるで舞台のピクチャレスクな書割りにしか見えず、人々の応接がさながらパントマイムにしか感じられない世界が「探偵小説」の約束事を歪め、そして深める。二十世紀探偵小説の反探偵小説化の出発点を本作品集に認めることができる。特に短篇「世界没落」は探偵小説と精神分析が交錯するその呼吸を、いっそアナール派史家の手付きでえぐりだした絶品であろう。
「うつろ」と知れている現象の表面を飽かず描きこむ濃密な描写言語を持ち、独墺文化圏独特な「うつろ」の政治史・文化史をたれよりも深く知る種村季弘の全文業の着地点としてまことに相応しい作品集と感じられる。
遺稿整理ということで訳者解題の類はあきらめようということなのだが、初出年など最少限度の作品データくらいは欲しいと思った。
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